
3日の朝、長嶋さんと親しい知人から連絡があって、「ああ、とうとう来てしまった」と思いました。ここ最近は容態がよくないんだろうと覚悟はしていたのですが、いざ訃報に触れると言いようのない感情になります。
【写真】監督として対決した“ON”コンビなど「ミスタープロ野球」の名シーン





長嶋さんは我々団塊の世代が子どものころ、すい星のごとく現れたスーパースターだったんです。野球をやっていた同世代は、ほとんど同じような感覚を持っていると思います。「長嶋さんを一目見よう」だとか、「長嶋さんと一度でもいいから同じグラウンドに立てたら」と、野球少年はみんな考えていたはずです。
長嶋さんが巨人に入団する1958年までは、プロ野球よりも東京六大学野球といった学生野球のほうが華やかで、人気がありました。各大学にスターがいて、立教大学には打者では長嶋さん、本屋敷(錦吾)さん、投手では杉浦(忠)さんと3人のスターがいました。当時はテレビも普及していなくて、どこで見ていたかと言うと映画館。どんな地方でも映画館はあるという映画全盛時代で、映画が始まる前にスポーツや政治のニュースが流れるんです。そこで「東京六大学野球で長嶋茂雄がホームランを打ちました!」ってね。みんながその姿に目を奪われて、言葉では言い表せないような躍動感に心を奪われましたね。
【写真】監督として対決した“ON”コンビなど「ミスタープロ野球」の名シーン
長嶋さんが巨人に入団したことで、プロ野球に一気に光が当たったように思います。テレビも普及してね。当時、長嶋さんに憧れる野球少年は2タイプに分かれました。尊敬から同じ三塁手になるタイプと、崇拝から別のポジションにつくタイプ。私は後者でした。長嶋さんは神様のような存在で、私はある種の長嶋教の信者です。同じポジションにつくなんて恐れ多いから、投手になりました。そんな風に勝手に思っていた野球少年は多かったと思います。
憧れの人との初対戦で
私がプロ野球に入って、南海ホークスにいた72年か73年だったでしょうか。オープン戦で巨人と対戦し、初めて長嶋さんと対決したときの光景と感動は忘れられません。憧れた人と対戦できるという緊張感でいっぱいで、「やってやるぞ」なんて思いはまったくありませんでした。マウンドから投球し、長嶋さんがスイングした瞬間、カメラのフラッシュがバーッとたかれたように真っ白に感じたんです。ものすごい閃光を浴びたような感覚でした。と同時に鋭い打球が光の速さで飛んでいきました。レフトの正面に飛んでレフトライナーに打ち取ったんですが、あの時の衝撃は本当にすごかった。