将軍を追放した時、自分が意のままに動かせる相手をきちんと計画的に置いていることが、それまでの室町幕府の歴史からすれば新しかったのです。

政元以前も、将軍が追われたことに関する先例はありました。最初の足利将軍である足利尊氏も京都を攻め取ったものの、のちに敗れ、追い払われて一度は九州に下っています。また、六代将軍の義教は嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されました。その次が政元で、足利義材を追放して義澄を立てました。そして最後が織田信長による足利義昭の追放です。

このうち南北朝の内乱真っ只中の尊氏はともかく、嘉吉の乱で義教を暗殺した赤松満祐は、その後の政権構想をしっかりと考えていたとはいえません。もちろん次の将軍候補について全く考えていなかったわけではなく、一応「この人を次の将軍に」と候補を立ててはいます。しかし、それが将軍家からすれば非常に遠い関係の人物であったので、京都の人々は「これは全く実現可能性がない」と判断しました。

そしてそれ以外にも「幕政については、自分はこういうことをします」といったことは何も告げずに本拠地の播磨へ戻っていったのです。とにかく義教を殺すのが目的であったといえます。

対して政元は、新しい将軍を用意し、。つまりポスト応仁の乱の社会のあり方を自分なりにデザインして形にしていこうとしていた政治家だったと思われます。ここが赤松満祐と大きく違うところでしょう。公武合体ともいえるような構想を準備して、新しい政治体制を作ろうとしています

その意味で、政元は室町時代をガラッと変える新しいあり方を模索しており、室町時代における最もゲームチェンジャー的な存在と言えるのではないでしょうか。

政元の行動は、「こういうことができる」「こういうことをしてもよい」といった先例を作ったことになるわけですから、明らかに社会のフェイズ(段階)を変えたといえます。

実際、政元ののちに三好長慶が現れて、本来の主君である細川氏を排除して権力を奪ってしまうわけです。これは細川氏の立場からすれば自分たちが足利将軍にやったことをやり返された、今で言うところの「ブーメラン」(自分の言動が自分に返ってくる)が成立する状況を自ら作ってしまった、ということになります。

新書『オカルト武将・細川政元』では、政元が習得に励んだ「狐の妖術」や、修行中の諜報活動などについても詳述。応仁の乱から信長上洛までの「激動の100年」を解説しています。

オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」 (朝日新書)
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