
細川政元をご存知だろうか。室町幕府の実権を握った覇者でありながら、「狐の妖術」や「空中飛行」の修行に没頭した、史上稀に見る権力者だ。
彼は「明応の政変」で足利将軍を追放、室町幕府の秩序を覆し、戦国時代の引き金を引いた人物でもある。ほかにも比叡山の焼き討ちなど、織田信長の先例になるような大胆な行動を次々に起こした。
長年細川氏の研究をしている武庫川女子大学の古野貢教授は、著書「オカルト武将・細川政元」の中で、「細川政元は公武合体ともいえるような構想を準備して、新しい政治体制を作ろうとしていた」と指摘する。
新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。
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政元は、「明応の政変」において本来の将軍を追い払い、新しい将軍を立ててしまいました。これは、それまでの室町幕府におけるスタンダードな政治的あり方からすればかなり異質なものでした。そもそも「家臣が将軍を取り替える」ということは手をつけてはいけないアンタッチャブルな行いであったわけです。
一部の例外を除いて、代々の足利将軍は自分自身が後継者を決める形になっていたはずなのですが、十一代将軍の義澄を立てる際には、将軍ではない政元が十代将軍の義材を追放する形で決めてしまいました。ここには将軍就任における本来のあり方ではなく、将軍よりも下位の立場である政元の意思が優先されています。
政元は義材を追放して将軍を義澄にすげ替える「明応の政変」を実行したことで、下の立場から将軍をコントロールできるようになったために、幕府内で強大な権力を行使するようになりました。
これはやはり幕府のルール・制度を変えてしまったということですし、将軍の権威・地位を棚上げしたことになり、幕府の根本的なあり方、いわばガバナンスのあり方も変質させます。このことは結果的には政元自身の首を絞めることにもなりました。そうした一連の動向を踏まえ、政元は群雄割拠の戦国時代の幕を開けた重要人物であったということができます。
そして政元は、社会を動かす政治の構造部分に新しい方法論を持ち込もうとしていました。