森岡書店店主の森岡督行(右)、東京藝術大学准教授・宮本武典(左)と、「わたしとアートのモノがたり」(積水ハウス主催)をテーマに語る。美術館によく行くことや、美とアートに関する本などについて話す(撮影/加藤夏子)
森岡書店店主の森岡督行(右)、東京藝術大学准教授・宮本武典(左)と、「わたしとアートのモノがたり」(積水ハウス主催)をテーマに語る。美術館によく行くことや、美とアートに関する本などについて話す(撮影/加藤夏子)

「私がその会社の商品を愛用していて、使い心地やデザインが好きだったからです。商品を売る時、心から勧められて、嘘をつく必要がないので」

 興味深い逸話がある。人事担当者に「あなたがお店に立つ時に相応(ふさわ)しいと思う服装で面接に来てほしい」と指示された。自分が通う店だけでは心もとなく、当時首都圏に20近くあった全店舗を見て回った。校正者を彷彿(ほうふつ)とさせる行動だが、その熱意が伝わったのか即採用。だが勤務先がギフト需要の高い店でラッピングに悪戦苦闘。レジの打ち間違いもありストレスで体調を崩してしまう。

「販売員はツラい」。そう家族に打ち明けたところ、父親に「お前に向いているわけないじゃないか」と呆(あき)れられる。そこで提示されたのが校正者だった。実は、牟田の両親はともに校正者である。父親は講談社校閲部で定年まで働いた。

 校正の仕事について親から詳しく聞いたことがなかったという。そういう話を無意識に避けていたのかはわからないが、父親は反論を許さない性格だった。ら抜き言葉、“全然(○○)OK”を口にするとすかさず注意された。そうした“家庭内校正”から逃れるため、学校で書いた作文の類は父親に見せたことがない。そんな父親からの提案ではあったが、次の言葉が牟田の背中を押した。

「腕を磨けば一生やっていける仕事だよ。やりたいのなら、働ける場所がないか聞いてやるよ」

 校正者ならば図書館で働いた経験を少しは生かせるだろうと考え、2008年、講談社校閲部と業務委託契約を結び働き始める。

■文章の味わいを大事にむやみに鉛筆は入れない

 校正デビューは「付物」だった。本文ではなく、本のカバーや帯、目次、奥付、索引を読む仕事だ。疑問や提案をゲラに書き込む。使うのは主に鉛筆。最終的に採用するかを決めるのは編集者と著者だから、消せる記し方が求められるのだ。

 校正者としての助走を繰り返していると、2年目に早くもチャンスが訪れる。社内随一の校正者・高畑健一(73)のもとで、高畑の定年までの1年間という限定ながら、一緒に働けることになったのだ。その決定をしたのは当時校閲部長(現編集総務局局次長)だった奥野仁(51)である。

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