早いものでもう年の瀬ですね。12月2日より小雪の末候「橘始黄(たちばなはじめてきばむ)」となります。「橘の実が黄色く熟し始める頃」という意味です。いくつかの辞書や解説文などで、「橘の葉が黄色く色づく頃」と言う説明を散見しますが、これは間違い。万葉集にも「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(聖武天皇・巻六 1009)」とあるように、橘は常緑。黄葉はしません。古今東西世界中で、冬も枯れずに緑を保つ常緑樹は特別な霊力・生命力の象徴として、神聖視する傾向はありますが、特に宣明暦の小雪末候では「閉塞而成冬(へいそくしてふゆをなす)」を貞享暦で橘を入れるほど、日本においては橘への神聖視は強いものでした。今でも左近の桜、右近の橘として雛飾りにもなっていますね。

橘はみかんにそっくり
橘はみかんにそっくり

田道間守(たぢまもり)が持ち帰った伝説の「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」が九州のとある島に!

橘(タチバナ/Citrus tachibana Tanaka)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木。ヤマトタチバナ、ニホンタチバナなどの別名のごとく、古くから日本の暖地に自生していた唯一の日本原産のかんきつ類といわれています。「魏志倭人伝」にも「有薑橘椒襄荷不知以爲滋味(薑(ショウガ)橘(タチバナ)椒(サンショウ)蘘荷(ミョウガ)が自生するが食用になると知らないようである)と記載があります。和歌山県日高郡白崎村の皆森山には、タチバナの大株が多数自生し、古老の話によれば古い時代から自生していた、と言います。果実外皮は滑らかで、直径3センチメートルほど。現代の温州ミカンをぐっと小ぶりにしたような外見で、香りもよいのですが酸味が強く生食用に向きません。
一方で、日本書紀、古事記、万葉集の長歌に第十一代垂仁天皇の御代90年2月1日、勅命を受けて天日槍(アメノヒボコ/天之日矛・新羅からの伝承の渡来人・渡来神)の玄孫・田道間守(多遲麻毛理・たじまもり)が常世の国から持ち帰った不老不死の神仙の木の実「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を古事記で「是今橘也」(これ今の橘なり)と記述しているため、タチバナを外来種だとする説もあります。
が、これは古来「橘」はみかん類総称の意味もあり、同じ古事記に、この時代より前、黄泉より生還した伊邪那岐命(イザナキノミコト)が禊(みそぎ)をした地名として「筑紫日向小戸橘之檍原(ちくし ひなた おどのたちはなのあはきがはら)」と出てきますから、日本原産の「橘」と田道間守の持ち帰った「橘」は別であることがわかります。
田道間守が往復十年がかりで持ち帰った「橘」=非時香菓はヤマトタチバナとちがい食用になる南方産の種で、一説では中国の南東部、またはインドまで行き取ってきたともいわれています。
実はこの田道間守の持ち帰ったものだ、といわれる非時香菓が、鹿児島県の離島、甑島(こしきじま)列島の下甑島に今も伝わるのだとか。下甑島には、ヤマタテ、トウミカン、コウズミカン、シロミカンが利用されずに放置されていて、明治生まれの古老によるとそれは「田道間守が持ち帰ったもの」だと言い伝えているそうです。
だとすると、万里の波濤を越えて南方から実を持ち帰ったとしたら、その帰路で幾度か種子を分け与えていたということでしょうか。

温州みかん
温州みかん

美しいカノコユリ・恐竜・大鰻・奇岩・来訪神……甑島は田道間守が訪れた異界そのもの

きびなごのブランド産地としても有名な甑島は、鹿児島県の西40キロの東シナ海に浮かぶ群島で、上甑島(かみこしきしま)、中甑島(なかこしきしま)、下甑島(しもこしきしま)の有人島3島と多数の無人島で形成されています。2015年には列島全体が国定公園となりましたが、まだ開発の手が及んでいない、独特の文化と自然が息づいています。
島内の中生代白亜紀の地層には、アジアでは珍しい恐竜のケラトプス族や翼竜の化石が発掘されたり、上甑島には長目の浜と呼ばれる景勝地には「なまこ池」、「かざき池」、「貝池」が独自の水域を形成し、世界で3箇所でしか発見されていない原始的なバクテリア・クロマチウム、2メートル以上もあるオオウナギ(別名カニクイ)など、珍しい生き物が棲息しています。
シーボルトがヨーロッパに紹介した美しい日本の自生種・カノコユリの明確な自生地は甑島だけで、かつてはその球根が島の窮乏時の食料となり、海外にも輸出されるほど多く自生していました。
海岸線の岩礁は奇岩の景勝が多く、特にナポレオン岩と呼ばれる奇岩は有名です。
また、島原の乱で逃れてきたキリスト教徒が逃れてきて隠れキリシタンの集落を作ったという伝説があり、堀田善衛「鬼無鬼島」はこの島を舞台にしています。
来訪神「トシドン」は、ユネスコの文化遺産の昭和52年に登録第一号に。家々を来訪して子供たちを脅しつつしつけをし、最後にを置いていきます。棕櫚とソテツと紙で作られる面と衣装は毎年作成されてその年に燃やされるもので、独特のプリミティブな迫力のある神様です。
こうしたさまざまな不思議な風物がつまった甑島は、まさに非時香実の伝説にもふさわしく、実際かつては中国の南東部に向かう航路の中継地ともなり、田道間守の旅が事実ならば、行き帰りに立ち寄ったことでしょう。もしかしたらこの島が「常世の国」のモデルの一つであったかもしれません。

ナポレオン岩
ナポレオン岩

コミカン・李夫人……現代のミカンへの変貌

さて、田道間守が持ち帰った「非時香菓」は、和歌山県下津町の橘本神社に移植され、そこから和歌山一帯で生産されるようになったといわれます。これをコミカン、別名紀州みかんと言い、江戸時代初期、和歌山の商人・紀伊国屋文左衛門が、「ふいごう祭り」で使用するみかんの品不足で江戸で値が高騰していたところへ暴風雨をついて船でみかんを江戸に運び入れ、江戸中の評判となり、一躍名をはせました。
一方、垂仁天皇を継いだ景行天皇が本へ行幸された際、コミカンの種子を与え、小天(おあま)村水島に植えたという伝承が残されていて、この九州に伝わったコミカンの種子の突然変異から現在のもっともポピュラーなみかん「温州みかん」のもととなる種が作出されたのが、戦国期から織豊時代の頃と言われています。九州と言う大陸との交易の盛んな地で、中国や朝鮮からのかんきつ類と交雑して生れたものかもしれません。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折にみかんの苗木を持ち帰ったという記述もあるようです。
こうして生れた温州みかんは大粒で甘かったのですが、種がほとんどなかったため、19世紀半ばに現れた完全種無し蜜柑とあわせて、武士階級からはお家断絶と縁起が悪いと嫌われ、江戸時代は贈答用以外には普及しなかったようです。また、温州みかんは当時「李夫人(りうりん/りふじん)」という変った名で呼ばれていました。李夫人とは古代中国の漢王・武帝が愛した絶世の美女の名で、特に柔肌としてしられていました。柔らかな皮と実を、李夫人に喩えたのかもしれません。
明治になって、統計上みかんの名称を統一整理する必要があり、その際、コミカン(紀州みかん)を「普通蜜柑」、李夫人を「温州蜜柑」とすることとなりました。なぜ日本産のみかんを中国浙江省温州府の名としたのかといえば、南宋の韓彦直「橘録」(1178)で「温州のものの上と為すに如かざるなり」ともあるとおり、古今みかんの世界の最上級は「温州」であるとされていたため。
こうして明治以降非時香菓は温州みかんとなって日本の冬のコタツの団欒に欠かせないものとなりましたが、近年では、かんきつ類の不足する年末年始に旬を迎える日本のみかんが、カナダやイギリスで「クリスマスオレンジ」として喜ばれ普及している、なんていう噂も聞きます。想像するとちょっと面白いですね。
それにしてもみかんを食べながらコタツに足を突っ込んでうたたねをして、永遠にまどろんでいられそうなあの感覚。田道間守が訪れたという「常世の国」という楽園と、もしかしたらけっこう似ているかも、なんて思いませんか?