
若い人にとって「見える」「見えない」は関係ない
ただ、僕の根底の思いからすると、そういう話をしたいとは思っていないので、ただただ笑ってもらえそうな話をする。そうなると、呼んでくださった方からすると「思っていたのと違う」となりますし、僕もその空気は感じます。お一人お一人の顔は見えないけど、とんでもなく重たい空気の舞台袖に戻っていく。そんなこともありました。その結果、講演会的な仕事はやらなくなっていったんです。
ただ、最近になって、そこが変わってきつつあるんです。高校生、あるいはもっと若い世代の人と話したり、メッセージをもらったりすると、僕の「見えない」という部分をすごくナチュラルに受け入れてくれているんです。そこに壁や戸惑い、立ち止まりがないというか。
僕のネタを見てほめてくださる多くの大人は「『見えない』ことを忘れるくらい面白かったです」とか「『見える』『見えない』とかそんなこと関係なく笑いました」と言ってくださいます。これももちろんうれしいんですけど、今の子どもたちは“忘れるくらい”だとか“そんなこと”だとか、そこすらないんです。最初から一人の芸人として僕をシンプルに見てくれて、面白ければシンプルに笑ってくれます。
今は時代の流れもあって、多くの大人も「ニュートラルに見よう」「変な色眼鏡があっては失礼だ」みたいな感覚で見てくださるんですけど、そこには前提として僕が「目の見えないお笑い芸人」だということがあるんですよね。いくら時代が変わったとはいえ、大人にはそれまでの時代の積み重ねもあるし、そこからの感覚も多分に残っている。それが当然だとも思います。
でも、今の子どもたちは本当にそこの前提がないんです。SNSなどで障害のある人たちが当たり前に発信している。障害がある人が横にいることが普通の社会になっている。当たり前のように目にすれば、それが当たり前になっていきます。感覚がフラットになっていると感じますし、そんな中だからこそ自分が芸人として活動できているのだと思います。今は、これまで以上にその意味を感じています。なので、講演会というか、小学校などでネタも含めて自分の話をしますし、その機会はできるだけ増やそうと考えています。