※写真はイメージです(写真:GettyImages)
この記事の写真をすべて見る

 室町末期に将軍を追放し、新将軍を立てた男がいた。知名度は高くはないかもしれないが、細川政元は「明応の政変」で室町幕府の秩序を覆し、戦国時代の幕を開けたといえる人物だ。比叡山焼き討ちや将軍追放など、常識を覆す手法をとり、応仁の乱以降の覇者として権勢をふるっていた。

 その激動の人生を、新刊『オカルト武将・細川政元  ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(古野貢著)から、一部抜粋して解説する。

*   *   *

「ポスト応仁の乱の覇者」はいかに時代を変えたのか

 政元は、「明応の政変」において本来の将軍を追い払い、新しい将軍を立ててしまいました。これは、それまでの室町幕府におけるスタンダードな政治的あり方からすればかなり異質なものでした。そもそも「家臣が将軍を取り替える」ということは手をつけてはいけないアンタッチャブルな行いであったわけです。

 一部の例外を除いて、代々の足利将軍は自分自身が後継者を決める形になっていたはずなのですが、十一代将軍の義澄を立てる際には、将軍ではない政元が十代将軍の義材を追放する形で決めてしまいました。ここには将軍就任における本来のあり方ではなく、将軍よりも下位の立場である政元の意思が優先されています。

 政元は義材を追放して将軍を義澄にすげ替える「明応の政変」を実行したことで、下の立場から将軍をコントロールできるようになったために、幕府内で強大な権力を行使するようになりました。

 これはやはり幕府のルール・制度を変えてしまったということですし、将軍の権威・地位を棚上げしたことになり、幕府の根本的なあり方、いわばガバナンスのあり方も変質させます。このことは結果的には政元自身の首を絞めることにもなりました。そうした一連の動向を踏まえ、政元は群雄割拠の戦国時代の幕を開けた重要人物であったということができます。

『将軍追放の前例と政元の新しさ』

 そして政元は、社会を動かす政治の構造部分に新しい方法論を持ち込もうとしていました。将軍を追放した時、自分が意のままに動かせる相手をきちんと計画的に置いていることが、それまでの室町幕府の歴史からすれば新しかったのです。

次のページ 政元の「公武合体」の野望