同人誌「プロヴォーク」が解散して8カ月後の70年11月、中平は初の写真集『来たるべき言葉のために』(風土社)を出版。翌年9月にはパリ青年ビエンナーレに参加し、現地で撮影し注目を集めている。写真を翌日すぐに展示する「サーキュレーション」を実行した。その前後にも写真雑誌や美術誌に作品や評論を寄稿していたが、「何をやっても現実を捉つかまえられない」という焦燥感を抱いていた。
その原因は彼自身の写真にあった。中平は本誌72年8月号での渡辺の連載「インタビュー評論 現代の写真作家」に登場したさい、彼自身が否定するサロンピクチャーに陥りかねない、ポエティックな雰囲気が写真にあることを渡辺に指摘された。すると中平はそれを素直に認め、理由は夜間にばかり撮るからだと答えている。ものの輪郭がボケてしまう暗闇だと叙情が入りこむ隙間ができる、これからは太陽のもとでこそ撮らねばならない、「本当に世界が恐怖に満ちているのは真昼間に違いない」からだ。
翌73年、中平はその決意を評論集『なぜ、植物図鑑か』(晶文社)で明確に表明し、これまで撮ったネガを焼却する。それでもスランプは脱せず、本誌74年2月号の「話題の写真をめぐって」に出席したさいには、「どうしようもなく写真が好きで、やめられないけれども、ただ、今は、どうやって撮っていいか、ちょっとわからない」と、葛藤を吐露している。 一方の森山は複数の雑誌連載を抱え、ときにマスメディアにも登場し、さらにシルクスクリーンによる初個展(70年)を開くなど多忙だった。
本誌でも70年は表紙を担当、翌年は「何かへの旅」を連載した。続く72年には作品発表のほか、4月号で特集「特別レポート 森山大道=その映像のナゾ」が組まれている。渡辺の「インタビュー評論」と鈴木志郎康の評論、それに生い立ちを関係者による証言「エピソードにみる放浪の半生」で構成されたユニークな企画だった。だが、こうした活躍のなかで、森山は自身と写真との乖離(かいり)を強く自覚していた。
その危機は同月に出版した『写真よさようなら』(写真評論社)の後、決定的になった。映像の複写や現像に失敗したネガを用い、ビジュアルコミュニケーションとしての写真の解体に挑んだ本書は、同時代の大きな達成として受け取られた。ただ同時に、その達成はコミュニケーションの担い手である、写真家自身の存在意義さえ否定したのだった。
自らの葛藤について、森山は72年12月22日の朝日新聞夕刊に寄せた「転換を迫られる写真」でこう書いた。「自己の思惟(しい)を表現する手段としての写真は、その一冊の本を出したあたりからはっきりと終ってしまったような気がする」
だから今後は「単純素朴な、それだけに本質的であろうと思うところから写真をやり直さねばならない」と。そこで同年7月から発行し始めた私家版の写真誌「記録」や、翌年の本誌連載「地上」では言葉のとおりと思える作品を発表した。
だが、その素朴さこそ、本質と思想と行為のズレから生じる苦しさの証しではないか。そう指摘したのは、同じ「プロヴォーク」同人の多木だった(73年3月号「話題の写真をめぐって」)。
視覚的興奮
72年11月号の特集「表現のラディカリスムはどこへ行く」には、中平と森山、そして北井一夫が作品を寄せている。粗いザラ紙を使った印刷は、彼らの粗い粒子の写真と相乗的な視覚効果をもたらした。
このなかで、北井は「アサヒグラフ」で三里塚闘争の写真を発表し、71年にそれを写真集『三里塚』(のら社)にまとめたばかりの新鋭である。写真集は、激しい闘争を背景に人間の営みを浮かび上がらせた斬新なルポとして評価された。本誌でも72年5月号で「ディスカバード・ジャパン」を中平と担当して鮮烈な印象を残していた。
この特集では多木も、記号論を軸にした写真論を7ページにわたり展開した。多木はラディカルな写真家たちによって作品という完結した表現は完全に解体し、いま「出来事のように出現する『写真の観念』」への予感が垣間見えていると述べた。ただしこの成果も、写真家が旧来の表現に固執するなら、さまざまな制度と文脈に絡み取られて「退廃」に陥るだろう。その例は、コンポラ写真の帰結に明らかである。「コンテンポラリー・フォトグラフィーと呼ばれた写真は、実際には写真についての観念を示すことに意味があった。しかし、不幸なことに写真家の作家意識がそれをだめにしてしまった。写真家はそれを作品としジャーナリズムはあたらしい流派とした」
この危機に写真家は再び状況と関わり「生の全体の構造を問い直すことを求められている」と、多木は論考を結んだ。ならば、その状況とは具体的にはどのようなものか。
それは雑誌メディアの消長が示しているかもしれない。たとえば同年末には「ライフ」誌が廃刊して、フォトジャーナリズムの後退が顕著になった。一方で、若者を対象とする雑誌、「平凡パンチ」(平凡出版、64年)、「週刊プレイボーイ」(集英社、66年)、「anan」(平凡出版、70年)、「GORO」(小学館、74年)などが相次いで創刊されていた。しかも、そのグラビアには大胆なエロスやメルヘンチックな旅があり、ロックスターやアイドルが輝きを放っていた。その表層的なインパクトは、報道でも広告でも芸術にさえもなかった「エディトリアル」と呼ばれる新しいジャンルの輝きだった。
このエディトリアルの感覚をいち早く写真雑誌に取り込んだのが、「カメラ毎日」の山岸だったのだ。後に、山岸の後輩である西井一夫はそう証言し、エディトリアルを的確に定義している。「エディトリアルにおいては、視覚的興奮、写真的見方そのもののために写真がある。テーマはあってもなくてもどちらでもよい」(「写真」が写真になった日々││あるいはエディトリアル=視覚的興奮の成立││一九六五年前後「写真装置」80年1号)
この視覚的興奮をただ貪欲に追い求めていたのが篠山紀信だった。篠山はこの72年に本誌の表紙を担当すると、毎回違った手法と被写体で読者を驚かせた。例えば3月号では、歌手のにしきのあきらと小柳ルミ子のツーショットを、前年から担当していたブロマイドやアイドル雑誌「明星」(集英社)の表紙スタイルで撮って賛否両論を巻き起こした。
さらに8月号では21歳のモデルと彼女の3人の姉弟をハワイで撮影。健康的でみずみずしいモノクロのヌードを、特別付録の写真集にまとめて話題となった。だが、これは予告編であり、9月には増刊号「ハイ!マリー」として、カラー写真も加えた176ページの本格的な写真集になってより多くの読者を魅了した。
さらに、この12月号には荒木経惟も「情景2」で登場し、以降の誌面は急速にエディトリアルに進んでいく彼らの活躍はエディトリアルもまた、シリアス・フォトであることを示すのだった。