キマイラ四十四年――この物語は、ぼくにとって、生きてゆくための杖のような作品となってしまった。

 いつ何時でも、このキマイラを書くために、白い原稿用紙の前に座すと、心の背筋が伸びるのである。白い、まだ何も書かれていない原稿用紙の前に座すというのは、いまだにときめきがある。神と向き合う、自身と向き合う、宇宙を見つめる――そういうことと似ている。

 そのキマイラを書くことを、なんと一年半近くも休んでしまった。幾つかの病気で、四度ほど入院をしたのだ。運よく生還して、今はまた、ありがたいことに原稿を書く日々にもどっている。もちろんキマイラも再開した。しかし――キマイラを休んでいる間に、かなり真剣に考えたことがある。それは、長い物語を、このキマイラをどうすべきかということであった。自分の残り時間が少なくなってきていることを、ぼくは知っている。その中で、この長大な物語をどうしたらよいのか。物語は、終ってよいのか。書き出した以上は、作家はその物語を終らせなくてはいけないのではないか。

 そんなこと、誰が決めた。終らない物語があってもいいのではないか。十代の頃、おもしろい小説を読み耽って、残りのページがいつの間にか少なくなってゆく。このなんともいえない哀しさはどうだ。むしろ、物語は、終らないことこそ正しいのではないか。わからん。わからないんですよ、みなさん。どうしたらいいの。わかんなくたって、やらなきゃいけない。書かなきゃいけない。

 そこでたどりついたのが、「最終巻を、先に書いてしまう」ということであった。

 これを、もしもぼくが亡くなったら、実はキマイラは書きあがっていたのだよということで出版していただくつもりでいたのである。

 しかし――書きあげてみたら、おそろしいことだねえ。生きているうちに出版したくなってしまったのだ。まことに申し訳ない。読みかけの長い物語の最終巻を先に読んでしまう――これが読者の不幸であるのか、幸福であるのか、もはやぼくにはその判断能力がない。だから、出版されたらすぐに読んで欲しいとは言わないが、ひとつ、よろしくとは、書いておいてもいいのではないか。どうか、ひとつよろしく。

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