当時のぼくの心意気としては、

「グロテスクなものほど美しく書く」

「漫画よりもおもしろく」

「スピード感とリズムある文体」

「格闘シーンは、詩や音楽のように」

 こんなことを考えていたのではないか。ペンが疾るにまかせる。感覚がたちあがってきたら、好きなだけ枚数を費やして、疲れ果ててぶっ倒れるまで書く。のりにのった時は、もう狂人となる。人間でなくなって、妖怪の仲間になっている。擬音は平気で使う。ただ、新しい表現をそこに持ち込む。たとえば、キマイラ化した少年が、喉を垂直に立て、天に向かってひしりあげるシーンでは、あるるういいい
などという表現を平気で使った。

 このキマイラシリーズではないが、別の物語で、人の叫び声などを、
「へぎざごではじっだいでだなぎがあな」
「だっじゃるうう……」
「じゃごな」
 などと書いたりした。

 これが、十五年ほど前、ある作品で、斬られて死ぬ男に、久しぶりに、

「あごでげばっ」

 と叫ばせたら、「夢枕は、漫画『〇〇』の真似をしてる」と、ネットなどでおこられてしまうという、まことにトホホな状況もおこるようになった。

 違うんだよ、この表現はオレのほうが先にやってるんだよう――と言いたいのをこらえて(結局ここで書いてしまったわけだが)、日々、『キマイラ』等の物語を書き続けてきたのである。雨の日も風の日も、連載十四本を抱える日々も、親父が死んだ日にも、おふくろが亡くなった日にも、書き続けてきた。ぼくだけでなく、これはほとんどの作家や、俳優、多くの職業に携わってきた人たちも、おそらく同じであろう。

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