1976年1月にアルバム『デザイア』を発表したボブ・ディランは、同年4月にローリング・サンダー・レヴューを再開。翌月にかけてほぼ同じ顔ぶれのミュージシャンたちとアメリカの南部と西部を回り、NBC制作のテレビ・スペシャルとライヴ盤『ハード・レイン』を残している。そして11月25日には、サンフランシスコで開催されたザ・バンドのフェアウェル・コンサート『ザ・ラスト・ワルツ』に参加。エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ヴァン・モリスン、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズらが顔を揃えた文字どおりのオールスター・コンサートの終盤に登場し、強い存在感を示した。本稿執筆時点からみると、ちょうど40年前のことである。
1977年は作品の発表や正式な形でのライヴは行なわれていない。『レナルド&クララ』の仕上げに専念していたのかもしれないが、翌78年1月に同作品を公開した直後、ディランは、ローリング・サンダー・レヴューを支えたロブ・ストーナー、スティーヴン・ソールズ、デイヴィッド・マンスフィールドを含む大きな編成のバンドと初来日をはたしている(2月下旬から3月下旬にかけて東京/大阪で計11回)。いわゆるグレイテスト・ヒッツ的な選曲のコンサートだったのだが、大胆なアレンジのせいか、恥ずかしながら、なかなかタイトルが浮かんでこない曲が多かったことを告白しておこう。
日本のあと、ディランと彼のバンドは年末にかけて、豪州、北米、欧州の各都市を回っている。丸一年をかけた大規模な世界ツアーだったわけだが、その間にツアー・メンバーたちと録音した『ストリート・リーガル』を、約2年半ぶりのスタジオ・アルバムとして6月に発表。そしてツアー終盤の11月、ある神秘的な体験をへてクリスチャンとして自分を意識するようになったといわれる彼は、次の作品でその精神面での変化を反映させることになる。鉄道敷設現場で十字架のようにも見える鶴嘴を振り上げる男を描いたジャケットも印象的な『スロウ・トレイン・カミング』だ。
79年春、アラバマ州マッスルショールズで行なわれたレコーディング・セッションに彼は、前年、《サルタンズ・オブ・スウィング》をヒットさせていたダイアー・ストレイツの中心人物マーク・ノップラーを招いている。「ディランの声とアルバート・キングのギター」など評されることも多かったスコットランド出身のアーティストから、なにか強い、それこそ神秘的なインスピレーションを感じとったのかもしれない。ドラムスにはノップラーの希望もあって、ダイアー・ストレイツのピック・ウィザーズが参加。多くの名盤に参加してきたマッスルショールズ・リズム・セクションのギーボード奏者バリー・ベケットと、CSNYとの親交でも知られるベース奏者ティム・ドラモンドが脇を固める形でセッションは進められていき、アルバム『スロウ・トレイン・カミング』は8月に発表された。中心トラックでシングルとしてもリリースされた《ガッタ・セイヴ・サムバディ》は、79年度のグラミー賞で新設されたロック部門の初受賞作品となっている。
ユダヤ系の家庭で育つことの意味、ユダヤ教とキリスト教の関係と違いなどついては、それなりにいろいろな本を読んではきたものの、未だにきちんと把握できていない。また、これまでにも何度か書いてきたとおり、彼はすべてをさらけ出すタイプのソングライターではないわけであり、その点には踏み込まないでおこうと思うが、最後に、どこかでそういった流れともつながる興味深いエピソードを一つ。
あの時期のディランと関わったといわれる教派で働き、のちにイギリス側の指導者になった男性の息子が、英国人の感性でアメリカン・ルーツ・ミュージックに取り組むマムフォード&サンズのリーダー、マーカス・マムフォードだ。
ローリング・サンダー・レヴューに参加していたT-ボーン・バーネットにも認められた彼は、若き日のディランと思われる人物が最後にシルエットで登場するコーエン兄弟作品『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』のサウンドトラックに大きく貢献。また、ベースメント・テープス期に手つかずで残されたディランの歌詞に若いアーティストたちが曲をつけて甦らせるという興味深いプロジェクト『ロスト・オン・ザ・リヴァー』にも参加するなど、じわじわと、ディランとの距離を縮めている。[次回11/16(水)更新予定]