『DESIRE』BOB DYLAN
『DESIRE』BOB DYLAN
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The Bootleg Series Vol.5『LIVE 1975; THE ROLLING THUNDER REVUE』BOB DYLAN
The Bootleg Series Vol.5『LIVE 1975; THE ROLLING THUNDER REVUE』BOB DYLAN

 《ブルーにこんがらがって》《愚かな風》《運命のひとひねり》などの名曲を生んだ『ブラッド・オン・ザ・トラックス』は各方面から高く評価された。発表は1975年1月。一気に商業化が進み、反発する勢力も出現するなど、ロックが大きくその様相を変えようとしていた時期にあたるわけだが、もちろんそういったことには関係なく、34回目の誕生日を迎えたころ、ディランはまた新たな一歩を踏み出している。アルバム『デザイア』の制作と、ユニークな発想のコンサート・ツアー、ザ・ローリング・サンダー・レヴューだ。

 この一連の動きは、心理学者でもあったシアター・ディレクター、ジャック・レヴィとの出会いからスタートしている。レヴィはザ・バーズのロジャー・マッギンとカントリー・ロック・オペラに取り組んだことがあり(実現はしなかったが、《チェスナット・メア》《ラヴァー・オブ・ザ・バイユー》などはそのプロジェクトから生まれたもの)、おそらく彼から紹介されたのだろう。

 二人はわずかな時間で、基本的にはディランがコンセプトと曲、レヴィが言葉という役割分担で《ハリケーン》《アイシス》《モザンビーク》などを含むアルバム1枚分の曲を仕上げてしまう。そして7月から録音に着手するのだが、ここでディランは、それまでとはまったく違うタイプのバンドを組織することにこだわった。ただし、はっきりと構想が固まっていたわけではなかったようで、20人前後のミュージシャンをスタジオに呼ぶなど、試行錯誤がつづいていく。最終的には、旧友ボブ・ニューワースに紹介されたと思われるベース奏者ロブ・ストーナー、彼の音楽仲間だったドラマー、ハワード・ワイス、グラム・パースンズとの共演などをへてすでに注目の存在となっていたエミルー・ハリス、バイオリン・ケースを提げてマンハッタンを歩くその風情に惹かれて声をかけた(!)というスカーレット・リヴェラらとともに、レヴィと書いた7曲と、ディランだけで書いた《ワン・モア・カップ・オブ・コーフィ》《サラ》の録音を行なっている。

 曲を書き上げていく段階ですでに着想を得ていたのだと思うが、さらにディランは演劇性、フィクション性の強いコンサート・ツアーを行ないながら、映画も製作するという方向に進んでいく。ザ・ローリング・サンダー・レヴューと約4時間の大作『レナルド&クララ』だ。

 このツアーには、ロブ・ストーナー、ハワード・ワイス、スカーレット・リヴェラのほか、ジョーン・バエズ、ランブリン・ジャック・エリオット、ボブ・ニューワース、ロジャー・マッギン、のちにプロデューサーとしても成功を収めるT.ボーン・バーネット、マルチ・プレイヤーのデイヴィッド・マンスフィールド、ギタリストのスティーヴン・ソールズ、(かなり意外だが)デイヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』などで名演を残したミック・ロンソンらが参加。すでに自分のプロジェクトに戻っていたエミルーに代わる存在ということだったのか、女優で音楽活動にも取り組んでいたロニー・ブレイクリーも招かれている。

 このあとディランは、リハーサルでなにか閃くものがあったのだと思うが、ロニーを含むラインナップで《ハリケーン》の最終ブァージョンを仕上げ、10月末にツアーを開始。12月初旬にかけて、上記のミュージシャンたちやアレン・ギンズバーグ、サム・シェパードらとともにツアーと映画の撮影をつづけたのだった。02年にブートレッグ・シリーズ第5弾として発表された『ライヴ1975』はその後半、モントリオールやボストンで収録された音源をまとめたもの。どの曲からも、大人数のバンドをリードしながら、力強く、前向きなスタンスで歌に取り組むディランの姿が伝わってくる。

 アルバム『デザイア』のリリースは翌76年の年明け。冤罪の疑いが濃厚だった元ボクシング選手ルービン・カーターの事件をテーマにした《ハリケーン》、離婚寸前の状態にあった妻への想いが伝わってくる《サラ》など、具体的な事象を歌った曲が多い、ある意味では異例の作品なのだが、もちろんカーターの自由を求める声は真剣なものであったとして、これらを含めた75年の活動のすべてが、独自の演劇性の追求ということだったのかもしれない。[次回11/9(水)更新予定]