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1954年3月1日、米国の水爆実験でマグロ船「第五福竜丸」が被ばくして71年がたつ。だが、第五福竜丸以外にも被災した船が数多くあったことはあまり知られていない。一体なぜなのか。AERA 2025年3月3日号より。
【衝撃事実!】日本近海で操業していた船でも汚染魚が捕れていた
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地図は、都立第五福竜丸展示館の図を元にした。学芸員の市田真理さんが解説する。
「水爆実験から一定期間に、汚染された魚が捕れた位置を示しました。ビキニ周辺だけでなく、日本近海で操業した船でも汚染魚が捕れました。太平洋が広く汚染されたことがわかります」
だが、事件から10カ月後の54年末、魚の検査は打ち切られ、翌年1月、米国が見舞金200万ドル(7億2千万円)を日本に支払うことで「政治決着」した。船員の検査も一部しか行われていないまま、うやむやになった。
「広島・長崎との決定的な違いは、航行中に被ばくしたから、被ばくの特定が難しいことです。汚染された魚や海水を体に入れて『内部被ばく』したらどうなるかのデータもありません。だから元船員たちは放置されました」(市田さん)
口をつぐむ船員にも事情はあった。
下本節子さん(74)の父・大黒藤兵衛さんは、室戸市のマグロ船「第七大丸」に乗っていた30歳のとき、ビキニで被災。2002年に胆管がんのため78歳で亡くなった。生前の父が、水爆実験について語るのを、下本さんは聞いたことがない。
「大人たちがざわついていた記憶があります。子どもは『家で聞いたことを外では言われん』と口止めされました」
魚が売れなければ、地域が成り立たない思いがあった。
「水爆実験のときは魚が売れなくて大変でしたが、55年に政治決着してからは魚は売れるし、高度成長期で景気もよかった。被ばくの話はしにくかった」