AERA 2025年3月3日号より

広島の線量とほぼ同じ

 風向きが変わってきたのは80年代。高知の高校生と教師が元船員への聞き取りを始めた。その調査を元に、2010年代に研究者による歯や血液の検査につながった。ある船員の歯を調べると、広島の爆心地から1.6キロで被爆した人が浴びた線量とほぼ同じだった。

 集団訴訟が始まったのは16年。実験から60年以上がたっていた。元船員らが国に損害賠償を求めた訴訟の地裁判決は、原告側の敗訴。だが、1人を除いた元船員の被ばくを認定した。いま船員保険の適用を求める裁判などが続いている。

 67回の核実験があったマーシャル諸島で昨年、「核実験被害追悼の日」の式典があった。現地を訪れた下本さんは「たくさんの人たちに絶対に伝えていかなければならない」と誓った。

 3月3日からニューヨークである核兵器禁止条約の締約国会議の現地イベントに下本さんは参加を決めた。

「被ばくの問題は過去の話じゃない。これからの問題なんです」

 なぜ第五福竜丸以外の船の被災が知られていないのか。奈良大学の高橋博子教授(アメリカ史)は14年、機密指定されていたアメリカ公文書を機密解除させた上で入手した。

「政治決着」直前の1954年12月、米国のアリソン駐日大使が本国に送った外交電報だ。重光葵外相との会談で、重光外相が「日米間で素早い解決を要する事項」として「ビキニ補償問題の解決」と、「大規模な戦犯の解放と仮出所」を挙げたと書かれていた。

 高橋教授はこう分析する。

「日本は国民の支持を集めるために、ビキニ被ばくの早期解決と引き換えに、BC級戦犯の釈放を外交交渉の材料にしたと考えます」

 ビキニ被ばくの幕引きをはかるため、第五福竜丸以外の被ばくが取りざたされるわけにはいかなかった。

 市民や研究者、ジャーナリストの追究により、ビキニ被ばくの実態が少しずつ明らかになっている。(編集部・井上有紀子)

AERA 2025年3月3日号より抜粋

▼▼▼AERA最新号はこちら▼▼▼