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「できない」と言わない母に 何でも「できる」と思い育つ
上原自身も「仲間と飲みに行くと、たまに障害があることが忘れられて、2階の居酒屋を予約されてしまう」と苦笑する。
上原はそのくらい周囲に障害の存在を感じさせない。それはなぜだと思うかと加藤に聞くと即座に母・鈴子(66)の存在を挙げた。
「生まれ持った資質も多分にあるでしょうが、鈴子さんが彼を『やりたいことができる』人に育てたんだと思います」
長野県に生まれた上原は幼いころから「やりたいことがあふれ出てくる子ども」だった。母の鈴子は上原から「やりたい」と言われて「できない」と答えたことは一度もないという。
3歳の時、3カ月入院することになった上原は、入院中に車いすを借りて初めて自由に移動できるようになる。すると数十メートル離れた院内の幼稚園に「1人で行きたい」と言い出した。鈴子がこっそり後をつけているのに気付くと、くるっと振り返り「ついてこないでって言ったでしょ!」。
「自由に行きたいところに行けるのが嬉しくてたまらない、といった様子でした」と、鈴子は振り返る。
小学校に入るころ「自転車に乗りたい」と言われた時も、歩けないから無理だとは言わず、「ちょっと待っててね」と答えて、偶然テレビで見かけた「手漕(こ)ぎ自転車」を他県まで買いに行った。遊びに行った上原がどんなに泥まみれで帰宅しても、詮索したり叱ったりしなかった。
こうした母のおかげで上原は何でも「できる」のが当たり前だと思って育った。
しかし社会はことあるごとに、親子に「謎」を突き付けた。まず最寄りの保育園に、入園を断られた。その時は別の幼稚園が受け入れてくれたが、小学校入学の際は教育委員会から「地元小学校はエレベーターもないし、障害者を受け入れた前例もないので、進学は99%無理」と言われてしまう。鈴子は「前例がないなら作ればいいじゃないですか」と何度も行政に掛け合い、毎日付き添うという条件でやっと入学を許可された。
入学から2週間後、担任から「お母さん、明日から付き添わなくていいですよ」と言われる。
「大祐君、いろんなことができるしお友達の輪にも入っています。心配ありません」
放課後は友人と一緒に野山を「這(は)いまわり」、小川に入ってカニを捕ったり、木に登ってカブトムシを捕ったり。「ズボンがよく破れるので、アップリケだらけになっていました」(上原)。鈴子も学校行事などのたびに教員と綿密に打ち合わせして「この道は車いすが入れないので車で送迎し、山頂で他の子どもたちと合流する」といった計画を立てた。これによって上原は、水泳も遠足もスケート教室も、友だちと一緒に参加できた。