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選手としては06年のトリノ、10年のバンクーバーと、相次いでパラリンピックに出場。バンクーバーでは準決勝で決勝ゴールを決め、銀メダル獲得の立役者となった。
12年からは1年間渡米し、一人暮らしをしながらフィラデルフィアのチームに在籍した。住む家も決まらないまま単身、現地に飛び込み、初日にスマホをなくして途方に暮れた。
「その時は困ったなと思っても、不安は全くありませんでした。シカゴチームで一緒にプレーした友人もいたし、何とかなるだろうと」
アプリでリンクを予約して個人練習をするのだが、その場に集まった見ず知らずのメンバーで練習やミニゲームをすることも多かった。NHLを目指す大学生や愛好家のシニアに交じって、パラの上原もプレーをしたが、障害者として区別されることはなかった。
「『分けたがりジャパン』の日本なら障害者は断られたかもしれませんが、米国は『知りたがりUSA』。興味津々で『この装備は何だ』などと質問攻めにされ、かえって仲良くなれました」
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賃貸物件を断られる いたるところにある「謎」
上原は帰国後の13年、一度現役を退く。その翌年にD-SHiPS32を立ち上げた。スポーツはもちろん、キャンプや畑仕事などを通して、障害者と健常者が一緒に時間を過ごし、お互いを知る機会をつくっていく。
「日本で障害児の多くが、運動や屋外活動から遠ざかってしまうのは、教師や福祉関係者、そして保護者に『できない』という思い込みがあるからです」
たとえば上原が特別支援学校を訪れ、「パラリンピックを目指せる子が3人くらいいますね」と言うと、しばしば「いやいや、うちには上原さんのようなアスリートはいませんよ」と返されるという。しかしパラスポーツには、ボッチャのように重い障害があっても、力を発揮できる種目もある。
「大人の知識不足で、子どもの可能性を削(そ)いでしまってはいけない。『知る』を届けることで、子どもたちがいろんなものを見て、いろんな人と関わるチャンスを増やしたい」
D-SHiPS32に設立から関わり、副理事長を務める乙黒義彦(69)は、上原を次のように評する。
「大祐君は10年後、20年後に障害を持つ子どもたちが当たり前に夢を持ち、それをかなえられる世界を作るため、今何をしなければいけないかを考えている。はるか先の景色を見て行動できることが、彼の素晴らしさだと思います」
(文中敬称略)(文・有馬知子)
※記事の続きはAERA 2025年3月3日号でご覧いただけます
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