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中高も地元の公立に進学し、そのすべてにエレベーターがなかった。各階に車いすを置き、階段は自力で上った。友人たちも、当たり前のように手を貸してくれた。
成長した友人たちが自転車やバイクに乗るようになると、上原は荷台や横につかまって、一緒に移動するようになった。かなりスピードが出るため、車いすの前についている小さなタイヤが小石などを踏んで、壊れてしまうことも。何度も修理を頼むので、車いすの販売代理店の社長からは「こんなに車いすを壊す人は珍しい」とあきれられ、さらにこう言われた。
「やんちゃなところはパラアイスホッケーに向いている。やってみないか」
パラアイスホッケーは「氷上の格闘技」とも称され、体当たりなども認められている激しい競技だ。気にはなったものの、リンクが遠くて自力で行けず、そのままになっていた。
パラアイスホッケーで活躍 銀メダル獲得の立役者に
大学に進み運転免許を取ると、自力で遠方のリンクに通えるようになった。大学2年生の時、パラアイスホッケーの練習を見に行ってスレッジ(そり)に乗せてもらうと「自分はこれが得意だ」と直感する。「教師」だった人生の目標が、一夜にして「金メダル」に変わった。
直感は正しかった。練習を始めると先輩から「俺が3カ月かかったことを、2週間でマスターする」と驚かれるほど、ぐんぐん成長した。子ども時代、這って行動する中で培われた体幹の強さと手首の柔らかさが、プレーヤーとして最大の強みになったのだ。
「這う経験は、体を作るのにとても大事。障害児の親御さんにも子どもは極力這って生活させた方がいい、と伝えています」
2004~06年には、米シカゴの強豪チーム、ブラックホークスに所属。日本代表と親善試合をした時、チームから勧誘されたのがきっかけだった。普段は日本で練習して、国際大会などがあるたびに開催地でチームに合流する。世界トップクラスの選手と一緒にプレーすることで、自分の力が着実に高まっていることが実感できた。時にはプロリーグのNHLのトップ選手が使うリンクで練習する機会にも恵まれ、「本当に楽しかった」と振り返る。
シカゴではもう一つ衝撃を受けたことがある。それはジュニアのパラアイスホッケー大会があり、障害のある子どもたちが楽しそうにホッケーをしていたことだ。子どもも親も楽しそうな姿を見て、自分でもこんな空間を作りたいと考えるようになる。
06年には岡山県で障害児向けのパラアイスホッケー体験会を開いた。いざ会場に来て「やっぱりうちの子は無理です」と言い出す保護者もいたが、「外野の声」が届かないよう、子どもたちをリンクの真ん中に集めた。スレッジに乗るのを怖がる子は、椅子に乗せて氷上を押した。最初泣いていた子も最後には自分から「そりに乗りたい」と言い出すようになった。