父の働く姿を見て 社長に憧れを抱くように
「この店は、普通じゃない」
そう感じて帰宅後ネットで調べると、八百鮮は創業から15年で大阪・名古屋・神戸に10店を構え、急成長を遂げている生鮮食品に特化したスーパーとわかった。採用ページではラッパーのような店員がポーズを決め「億を動かす型破りな八百屋」と紹介されている。鮮魚の担当者は「体長2メートルあるバショウカジキを仕入れて頭ごと並べた」こともあるそうだ。サイトに溢(あふ)れるエネルギーが普通のスーパーとは明らかに違う。クリックするうちに、力強い毛筆体で書かれたコピーに目が止まった。
「八百屋を日本で一番かっこいい仕事に。」
文字の後ろに、一人夜の商店街の真ん中に立ち、腕組みをして真っすぐこちらを見つめる男がいた。八百鮮の創業社長・市原敬久(いちはらたかひさ・42)。「この人物に会ってみたい」と思った。
最初の取材で話した市原の印象は、サイトの情熱的なメッセージからは意外なほどに落ち着いた雰囲気の物静かな男だった。本人も子どもの頃から「人見知りなほうでした」と語る。だが、その胸の奥底には、燃え盛る炎のように熱い「商い」への思いがあった。
市原は1982年の夏、岐阜県美濃市に生まれた。父親は自動車のハーネス部品を製造する小さな町工場の経営者だった。
「隣の家まで200メートル以上ある田舎でした。工場が家のすぐ近くで、幼いときから遊びがてら父親が働いている姿をよく見に行ってました」
小学生のときに父が「社長」と呼ばれることに憧れを抱いた。父の本棚の本田宗一郎や稲盛和夫の自伝を読むうちに、「自分も器の大きな社長になりたい」と考えるようになった。中学時代は真面目で成績は中の上、バスケ部で汗を流し、足が速いことから陸上の大会にも駆り出された。高校は進学校の県立関高校に入学した。
「ところが高校で応援部に入ったら周りにやんちゃな子が多くて、影響されて学業成績が一気に落ちました。先輩がバンドをやっていて、その影響で自分もドラムを叩(たた)くようになり、三つぐらいバンドを掛け持ちしてましたね」
高校でも「社長になる」という目標を忘れていなかった市原は、経営を学ぶため京都産業大学の経営学部に入学する。だが入ってみると机上の勉強が性に合わない。町工場を経営する父の姿と、授業で習うマクロ経済学がつながらなかった。
「つまらなかった大学生活が大きく変わり、僕の人生のターニングポイントになったのが、山本先生と出会ったことでした」