
『ジョン・ボン・ジョヴィ:ザ・バイオグラフィー』ローラ・ジャクソン著
●第3章 ソー・マッチ・パッション・アンド・ペインより
ライヴ・パフォーマンスは、デビュー直後のボン・ジョヴィにとって、実力を示す絶好の場だった。彼らは、スコーピオンズのサポート・バンド(前座)として、4か月にわたる試練のアメリカ・ツアーを乗り切り、7月中旬にノース・カロライナのシャーロットで、最後のステージを務め終えた。
そして3週間後には、ホワイトスネイクが主役を演じるフェスティヴァル(『スーパーロック‘84』)に出演し、次のイギリス・ツアーに向けて、ウォームアップを行なった。
彼らは、キッスのサポート・バンドとして、初めてイギリスで公演することになっていた。ツアーは1984年9月30日に、イースト・サセックスのブライトン・センターで、オープニング・ナイトを迎えた。
ボン・ジョヴィに対する評価は当初、さまざまだった。ジョンを“未熟なスティーヴン・タイラー”として簡単に片づけるレヴューもあれば、“期待が持てるポップ・メタルのニューフェイス”と評するレヴューもあった。
ジョンは、エアロスミスのシンガーに準えられることに、戸惑いを感じなかった。彼は、タイラーのライヴをニュージャージー一帯で何度も目の当たりにしていた。したがって、彼が無意識のうちに、異彩を放つフロントマンのスタイルを部分的に吸収したとする見解に、異論はなかった。
バンドが初めて、イギリスのステージに立ち、またキッスの前座として演奏することは、ジョンにとって感慨深いものだった。彼は、キッスのコンサートを見に行った少年期に、彼らに大きな影響を受け、それを心に刻んでいた。ジョンには、自分自身のバンドを率いて、感銘した彼らと同じ舞台で演奏することが、夢のように思われた。
キッスに関して言えば、物理的な変化があった。彼らは前年の秋に、ペルソナと呼ばれるトレードマークのメイクアップを止め、素顔を見せていた。デビューから10年を経て、キッスは、アルバム『リック・イット・アップ(地獄の回想)』の成功と、彼らが呼び物とした強烈なステージ・パフォーマンスにより、第二の黄金時代を迎えつつあった。
イギリス・ツアーは、スコーピオンズのツアーとまったく異なる体験だった。まず第一に、キッスのヴォーカリスト、ジーン・シモンズが、彼らのサポート・バンドを喜んで受け入れ、配慮を忘れなかった。実際、キッスのメンバー全員が、ボン・ジョヴィに関心を示し、優しい思いやりを見せた。
バンドは感謝して、この思いがけない度量の大きさに応え、それが、楽屋裏の建設的な雰囲気を作った。そしてステージでは当然、プライドにかけてサポート・バンドとしての義務を果たした。ボン・ジョヴィは毎夜、観客を惹きつけ、キッスのメンバーを感心させるようになった。
一行は、コーンウォールからマンチェスターやタインサイドを経由して、スコットランドまで足を延ばし、短期滞在した後、最終的にロンドンに戻り、10月中旬に、ウェンブリー・アリーナで2夜、公演を行ない、ツアーを締めくくった。
このツアーでは、観客の冷ややかな反応やあからさまな敵意に立ち向かう必要がなく、ジョンは思う存分、情熱的なパフォーマンスを繰りひろげ、ミュージシャン冥利を感じることができた。彼はまた、バンドの強力なバッキングや陰影のある表現力を実感することになった。
ジョンは45分のステージを通して、バックのダイナミックな演奏に呼応し、鮮烈なヴォーカルを聴かせた。それは、必然的に客席に伝わり、ボン・ジョヴィは、固定ファンの裾野を広げはじめた。同時に、一部のロック・ジャーナリストが、ジョンのスター性に注目しつつあった。
とはいえ、彼らはまだ、スターに程遠い生活を送っていた。ボン・ジョヴィは、精力的に活動していたものの、報酬は、多くなかった。メンバーはツアーの間、相部屋で過ごし、出費を最低限に抑えた。
ジョンは、彼らが“売春宿”同然の安宿に滞在していたことを、率直に告白している。彼らのわずかな予算では、選びようがなかったのだ。
だがそれは、まったく問題ではなかった。彼らは、そういう体験をすることに、単にスリルを感じ、ニュージャージーの友人たちに体験の一部始終を聞かせたいと思っていた。
ツアーを終え、アメリカに戻ったバンドは、『ボン・ジョヴィ(夜明けのランナウェイ)』に続くセカンド・アルバムの収録曲を書く必要に迫られていた。
『Jon Bon Jovi : The Biography 』By Laura Jackson
訳:中山啓子
[次回10/17(月)更新予定]