船橋洋一(写真:横関一浩)
この記事の写真をすべて見る

 日本の会社には、定年というものがある。なので、新聞社にいる社員記者は、定年を迎えると、社の名刺と取材経費は使えなくなる。

 そうするとジャーナリストであることはやめてしまう。定年後活躍している元記者でも、評論家としての活躍であって、新たなことをテーマをきめて取材をし、一冊のノンフィクションとしてまとめていくという人はいない。

 船橋洋一は、そのきわめて珍しいしかも傑出した例外だ。船橋が、昨年10月末に出した『宿命の子 安倍晋三政権クロニクル』を、どうしてこんなことができるのだろうと、驚き半分、うらやましさ半分で読んだ。

 船橋は、2010年12月には、朝日新聞を辞めている。現在80歳。が、現役バリバリでこの本でも、日米韓の政権当事者、官僚、民間人ら300人に取材をし、大きな流れの中で、国政の現場、外交の現場で何があったのかを、当事者の息づかいとともに伝えている。

 たとえば、拉致被害者の救出活動。安倍晋三が、トランプの信頼をえてその力を最大限に利用しながら、拉致問題を解決しようと苦闘する様が描かれる。

 トランプは、2018年6月12日のシンガポール、2019年2月27日のハノイの両方で、金正恩と首脳会談を行っているが、二度とも、日本の拉致問題を持ち出し、金正恩(キムジョンウン)に対応をせまっている。

 そして本ではハノイでのこんなエピソードが披露されるのだ。

 再度拉致問題を持ち出したトランプに対し金正恩が、えっ、またかという表情をみせると、トランプがこうたたみかける。

「米朝が核問題を解決したとして、その後の平和交渉と経済協力となれば、これは韓国抜きではやれないし、日本抜きでもやれない。平和交渉には必ず安倍の参加が必要になる。だから、安倍がもっとも苦労している難しい拉致問題に前向きに取り組んでもらいたい」

 そうすると隣に侍っていた妹の金与正(キムヨジョン)が「何とかならないの? 検討することはできるのではないのですか?」と兄に聞く。

 読者はここで、大きな転回があるかと固唾を呑む。が、金正恩は苦しそうに一言こうつぶやくのだ。

〈「いや、複雑な問題なんだ」〉

 こうして拉致問題は暗礁にのりあげるのである。

次のページ