そんな柴田淳にリスキリングを促したきっかけは、やはりコロナ禍だった。アーティスト活動の中断が余儀なくされると、救急救命士への思いがまた募りはじめ、彼女は専門学校に通って、資格を取得しようと決心した。

 ただ、課せられた勉強量は膨大で、毎日教科書と首っ引きで机に向かう必要があった。勉強漬けの毎日を三年間続け、コロナ禍での制限が緩和され、アーティスト活動が再開できる状況になっても、国家試験合格を目指して猛勉強を続けなければならなかった。

「ずっと歌う」と宣言しながらも高い授業料を払って専門学校へ

 興味深いのは、このリスキリングがキャリアアップやキャリアの路線変更にダイレクトにはつながらないものだったことだ。というのは、彼女が通学しはじめた時点では、救急救命士の国家資格に年齢制限はなかったものの、その主たる職場である消防機関は、採用試験において年齢制限を設けていたからである。つまり、国家試験に合格して資格を取得しても、それは就職にはまったく関係のない資格でしかない、運転免許証でたとえるならば、教習所に通い、試験に合格して運転免許証を取っても、運転は禁じられているような、そんな状況下で学んでいたのである(2021年10月1日、改正救急救命士法が施行され救急救命士の業務範囲が拡大、医療機関内でも救急救命処置を実施することが可能となったが)。つまり、彼女のリスクリングは、多段ロケットが下の段を切り離して高度を上げたり進路を変更したりするようなものではなかったのだ。
 
 柴田淳の不思議は、そもそもリスキリングの前段階からある。なぜ、若かった柴田淳がこれから進もうとした道がシンガー・ソングライターと救急救命士の二択だったのか? そして彼女はアーティストの道を進み、いまも歌い続け「ずっと歌いますよ」と宣言しているのに、なぜ高い授業料を払い、10代の若者に囲まれて、辛い勉強を続けて資格を取ったのだろうか? このまったく異なる道を交差させているものはなにか? この謎を解くには、彼女の歌に耳を傾けるしかない。

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日本一暗い歌手、と呼ばれて