企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。
昨年11月下旬、父の急死を知って衝撃を受けた西宮市仁川の実家周辺を、連載の企画で一緒に訪ねた。小学校3年生が終わるまで暮らした地だ。当時の父は多忙で帰宅は遅く、家族との会話も少なくて、そのころの父の記憶はない。いまから考えると、28歳で祖父が亡くなって社長を継ぎ、がむしゃらに仕事へ打ち込んでいたのだろう。
幼稚園や小学校低学年のころは外へ出て遊ばず、自宅の庭で独り、虫などを探して過ごす。そんな「内向きの少年」が行動的になっていくのは、東京へ転居し、4年生の2学期に千代田区立番町小学校へ通い始めたころだ。「いずれ自分も会社を継ぐのかな」と思い始めたのも、このころだった。
東京で父は早く帰宅すると、気さくに話しかけてくれるようになる。クラシック音楽のレコードを買ってくれ、一緒に聴いた。ベートーヴェンの曲が好きになったのも、父がくれたプレゼントと言える。
それでも、ときに、厳しい表情もみせた。何かを決断するときは、背中にトップとしての責任感をにじませた。近寄れないような雰囲気も、あった。その姿を胸に刻んだ日々が、浦上博史さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。
東京へ転校で迎えた中学受験のムードにすぐに巻き込まれる
仁川の流れの脇から、西にキャンプ場がある甲山を望むと、自然に口が開く。「あれが甲山で、仁川から遠足にいった。懐かしいですね。小学校には、ちょっと先にある実家からここを通って、いっていた」
『源流Again』で12月上旬に、都心に近い千代田区立番町小学校も訪れた。朝9時、冬の日差しの角度は低い。冬休みまであと2週間、校庭の端にあるプールには蓋がしてあった。転校してきたとき、いきなり中学校への受験ムードに遭遇した。驚きもしたが、すぐに巻き込まれ、自分も塾通いを始める。
学校に入るのは卒業以来か。アルバムの卒業文集に「父の跡を継いで会社を経営したい」と書いたが、本心は「浦上家に生まれてしまったからには、やらねばならない」という感じで、そんなに前向きではない。
父は、親の寄せ書きに「世にあって一隅を照らす人たれ」と書いた。世の中どこでもいいから一つの世界を照らせる人間になりなさい、という趣旨で、父は社長になれとは全く言わなかったが、感じさせてはいた。