日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年1月13日号では、前号に引き続きハウス食品グループ本社・浦上博史社長が登場し、「源流」である兵庫県西宮市仁川の実家周辺などを訪れた。
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誰にでも「忘れられない日」というのが、あるのだろうか。自分は、1985年8月12日がそうだ、と言い切れる。
慶應義塾大学理工学部の2年生の夏休みで、三重県伊勢志摩の英虞湾へいって、父・郁夫氏が社長を務めるハウス食品工業(現・ハウス食品グループ本社)の海の家で、母や3人の妹、親戚の人と過ごしていた。
その朝、グリコ・森永事件の犯人から「事件の終結宣言」が届く。事件は江崎グリコ社長の誘拐に始まり、森永製菓など菓子や食品のメーカーへ製品に毒物を入れて送るなど、脅迫で大金を要求する例が続いていた。ハウス食品にも、前年11月に社長へ現金を要求する脅迫状と毒物入りの製品が送られて、家族も社内も緊張が続いていた。
終結宣言でそれがほぐれ、社長も「よかった、よかった」と言って、夜に兵庫県西宮市仁川の実家へ集まることになる。ところが、実家に着くと会社の車が止まっていて、何か違和感があった。「終結宣言は偽装で、さらなる脅迫があったのかな」と思いながら家へ入ると、別の大変なことが起きていた。
父が羽田空港で乗った大阪・伊丹空港への日本航空のジャンボ機が、行方不明になって、伊丹に着かない。テレビをつけると、行方がまだ分からず、乗客の名前をカタカナで流し、「ウラカミイクオ」を「ウラカミイワオ」と言っていた。
夜がふけて、群馬県の御巣鷹山に墜落していると分かり、母と現場へ向かう。当時は飛行機でタバコが吸えて、愛煙家の父はいつも一番後ろの喫煙席に乗った。後方に乗っていた人は早く発見され、父は亡くなった520人のうち7人目にみつかった。47歳での急死。いまも「忘れられない日」だ。
父の事故死にも気丈に振る舞う母自分も目が醒める
母は気丈に振る舞い、4人の子どもの教育に力を尽くす、と意を決したようだった。自分もこの日を境に、父が勧めていた米国留学へ向けて、苦手だった英語の勉強も目が醒めたように力を入れ、ときに妹の家庭教師にきていた女子大生にも教えを乞う。「こんなことも、知らないのですか」と笑って答えてくれたのが、いまの妻だ。