娘の自由には「精神的な母殺し」が必要

 娘たちはそれを、まだ相手を見極めたり選んだりする能力がない、生まれてすぐのうちからするわけです。そしてそこから結構長い期間、命を握られた状態で親の都合によって育てられることになります。別に娘のほうはオーガニックにもビーガンライフにも興味がなくとも、親が信じていればそういったものを摂取させられますし、多少飢えてもスリムがいいと思っていても、それを自分でコントロールする前に親によって太らされたりするのです。最初からちょっと恨みがある状態で関係がスタートします。

 そこまでは息子でも娘でも同じなのだけど、さらに母と同じような機能を持つ肉体に育っていく娘の場合は、母の選択が必ずしも唯一のものではなく、別の生き方や楽しみの方法があることを知るので、それまで自分を縛り付けていた母の好みや選択が絶対ではないと身をもって体感します。そこでやはり自分とは違う母に対してより一層の恨みが芽生えることもあります。

 母のほうは母のほうで、かつては自分に命ごと全力で寄りかかってきた存在が、ある日突然、私はワタシ、あなたとは関係ない、みたいな顔をして歯向かってくるわけです。このあいだまで私の腹の中や腹の上で無力に泣くだけだったくせにという恨みができるのはある意味当然で、かつてと同じように自分の選択によって娘を縛ろうとしたり、娘の人格を否定しようとしたりする者も現れます。あなたの意見や仕事の不満に対して否定的で、あなたを責める母親にも、どこか自分の所有物が一丁前に自分の意見なんて持ちやがってという気持ちがあるのかもしれません。

 娘が真の意味で自由になるには、精神的な母殺しが必要なのだと思います。母との確執、そして心の中の姥捨てによる和解を描いたエッセイでは、佐野洋子さんの『シズコさん』など参考になるかもしれません。かつてドラマ化もされた萩尾望都さんの漫画『イグアナの娘』もそういったテーマを真っ向から描いています。

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「母」になって、身をもってわかったこと