母は、女を考える上での「最初のサンプル」

 家庭には経済的・地理的な事情もあるだろうし、高齢の母を捨てては寝覚めが悪いという気持ちもあるかもしれませんが、いっそ同居をあきらめて出ていくなど、しばらく向き合わないことにしてもよいと思います。母がどんなに、かつては命まで預けていたのにと思っていたところで、今の我々は誰に命を預けるか預けないかなんて、無限の選択肢から好みや思想によって自分で選べるわけだし、母親の気に入らない女になる自由だってある。口汚く罵(ののし)るお母さんの真意はもちろん私は分からないけれど、精神的に子離れできていないが故にこじらせているような気もします。

 完全に縁を切るのだってもちろん自由です。ただ、ある程度距離を取ったうえで自分に負荷が少ない範囲で付き合いを続けながら、母の嫌なところを観察するのは無駄な行為ではないと個人的には思います。母親は我々の多くが最初に出会う女であって、少なくとも私はその後、女の生きざまについて考える上での最初のサンプルとして、母がどんなことに憧れ何を軽蔑し、どんな劣等感に苛まれていたかを観察して大きくなった気がするのです。そして大人になる過程で、母と違った女とも多く出会い、自分がどれくらい母に似て、どれくらい似ていないかもわかってきました。

 私の場合、つい最近、自分も初めて「母」と呼ばれる存在になってみたわけですが、別にだからといって親への感謝があふれ出したとか、かつての母を理解し受容したとかいう精神的な旅はありません。ありがたいものは最初からありがたいし、恨んでいることは産んでも恨んでいます。いくつか身をもってわかったことと言えば、まずは私が思っていたより、産まれたばかりの人間というのはまったく何一つ自分でできないということ。ゲップひとつできずに下手をすれば喉を詰まらせる、なんて生物としてバグでしかないと思いますが、そんな存在なので、周囲が大切にせざるを得ない。

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娘→母の恨み 母→娘の恨み