「(兼任監督の)大役をやってくれと言われるのは光栄なこと。体力面や精神面で大変なのは重々承知していますが、期待に応えたいと思って決断しました」と語った古田監督は、ファンサービスや地域密着を目的とした“Fプロジェクト”も展開。チーム名も「東京ヤクルトスワローズ」に改称した。
1年目、チームはリーグ最多の161本塁打を記録し、3位になったが、「代打オレ」が流行語にもなったにもかかわらず、選手としては右肩故障で36試合出場にとどまり、監督業との両立は不完全燃焼に終わる。
翌07年も右肩の回復が遅れ、出場試合数はさらに減少。チームも最下位に沈むなか、「CS(同年から導入)に出られないなら辞めなきゃいけない」と考えていた古田監督は9月19日、「大きな責任のある監督を続けてきましたが、思うような成績を残せず、ファンに失望感を与えてしまった」と現役引退と監督辞任を発表。21世紀のプロ野球で、二足の草鞋を履くことの難しさを身をもって証明することになった。(文・久保田龍雄)