平山:先陣を命じられるのは武士の誉れです。織田氏の抵抗が一番激しいところはどこか。大高城よりも鳴海城だと私は考えています。家康が鳴海城ではなく大高城に派遣されているのは、義元の移動の露払いであり、家康は今川一門の扱いで、危険な最前線ではなくて、むしろ大高城の兵糧入れを支援しながら付城を無力化する作戦に関与した。そのうえで、今川本隊と合流すると考えられていたと思いますので、家康が最も危険な最前線を命じられたというのは当たらないと私は考えています。
千田:それは従来の評価と大きく異なりますね。しかし、そう考えたほうが納得がいきます。義元には鳴海城から解放しに行くのか、大高城からか、と二つの選択肢がありましたが、戦略的には鳴海城のほうが明らかに高度さを要求されますよね。
平山:大高城のほうが危険が高かったというのはつくられた家康伝説ですよね。
千田:信長の手厚い鳴海城への包囲網からしても、鳴海城攻めのほうが重要だったのに、家康が無理難題をいわれ、大高城兵糧入れを三河の家臣団とともにみごと達成した、という話には違和感あるなと思っていたんですよ。
平山:いかに家康が苦労したかということを際立たせるための、江戸幕府のつくり話だと思います。
千田:鳴海城や大高城との位置関係や、それぞれの役割から、家康の行動は非常に納得できます。義元自身は海路で入り、さらに尾張へと次の手を打つための準備として家康が大高城に入ると考えれば、全体の説明が非常にうまくつきます。
平山:かつての定説だった迂回奇襲説ではなく、藤本正行(ふじもとまさゆき)さんが『信長の戦国軍事学』(1997年)、『桶狭間の戦い』(2010年)で提唱した、正面攻撃説が今のところ妥当性が高いと思います。正面攻撃もたまたま風雨に見舞われ、それにうまく乗じたんでしょうね。
千田:今川軍では大高城を解放するというので、かなりの軍勢が動いていると思えます。今川軍の主力部隊が大高城方面へ展開していると、主力軍と義元の本陣との間にはかなりの距離が生じていて、小さな山と谷が入り組む地形でお互いを見通すというのは非常に難しい状況にあった。その後、義元が大高城に行く、あるいは主力部隊の一部が合流して戻ってくるのであれば、信長の攻撃を受けても撃退することは容易だったはずです。主力部隊が離れている瞬間に信長軍が攻めてきて、義元本陣が襲われているのに救援に戻って駆けつけたといった記録はないですよね。
平山:救援に駆けつけられないような状況であったとしか考えられません。今川軍の総勢は大きかったけれど、各地に散っていて、義元本陣の動きが比較的遅く、前にいる部隊との距離が少し開きすぎた結果なんでしょうね。
千田:そこまで信長はわかっていたとすれば、善照寺砦の索敵が奏功したことになります。義元はなぜこんなことになるのかと驚いたでしょうね。やはり信長が勝てたのは本当に奇跡ですね。