※写真はイメージです。本文とは関係ありません(frantic00 / iStock / Getty Images Plus)
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 若き織田信長が少数の兵を率いて、圧倒的な軍事力をもつ守護大名今川義元に奇襲をかけて撃破したとされる桶狭間(おけはざま)合戦。これまで小説、舞台、映画やテレビドラマが描いてきたが、桶狭間合戦に関する一次史料は少なく、実態は多くの謎に包まれている。

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 多くの軍勢を大高城へ向かわせ、自身の本隊は少数で桶狭間山方面へと進んでいた義元。善照寺砦(ぜんしょうじとりで)に入って以後、今川軍勢の動きを察知して進んでいた信長。信長はどんな条件から勝利を見定めて戦いを仕掛けたのか。なぜ今川軍は信長軍の発見が遅れ、総崩れとなったのか。城郭考古学者・千田嘉博氏と歴史学者・平山優氏が、城跡と合戦の現場に立って見えてきたことを語り合い、歴史の真実を突き詰め合った書籍『戦国時代を変えた合戦と城 桶狭間合戦から大坂の陣まで』から、一部を抜粋・再編して解説する。

義元に重用された家康の働き

平山:信長が荒天をものともせずに動くというのには前例があって、天文23年(1554)の村木(むらき)城攻めがあります。『信長公記』に、信長は荒れた天気の中、熱田から船に乗って、20里の航路を1時間で着いたとあります。だから信長はそういう意表を衝(つ)く作戦をやるクセはありますね。

千田:小谷(おだに)城攻めのときも、信長はわざわざ嵐の夜に朝倉(あさくら)軍が籠もっている大嶽(おおずく)砦を攻め落としに行ったりしていますね。だから桶狭間合戦で嵐のような天候で義元が不利になったというのは、たまたまというよりは、信長が今こそ攻めようとしたというのはあったのかもしれないですね。

平山:限られた史料で考えなければならないので難しいですが、城と地形の組み合わせでは、大高城と海との関係を重視すべきです。実際に兵糧入れは海からで、家康は付城の牽制のために織田勢を拘束していたという話であったが、いつの間にか敵中突破にすり替わっている可能性も考えられますね。

千田嘉博、平山優著『戦国時代を変えた合戦と城 桶狭間合戦から大坂の陣まで』(朝日新書)
桶狭間合戦に関わる城砦の位置関係。当時の海岸線は大高城近くに迫っていた(本書『戦国時代を変えた合戦と城 桶狭間合戦から大坂の陣まで』より)

千田:義元自身も大高城へ入る計画だったとすれば、陸路ではUターンする必要があるので、船で熱田に乗り入れることを考えていたと読み直せるかもしれません。

平山:三河方面から大高城に入ろうとするなら、陸を行くより海路で入っていったほうがはるかに楽です。さらに、海路で熱田に上がって清須城を窺う。その前提として、家康が大高城の周囲にある二つの付城を落としておく。鳴海城の付城は今川氏の先陣たちが攻めて、援護しながら本陣は進んでいく、と。

千田:いい作戦ですね。家康は今川方にいじめられ、大高城を解放するようにと命じられた。三河の侍なんて消耗品だから犠牲の多いところを担えといわれたとの話が伝えられてきましたが、現在の戦国時代研究の理解ではどう解釈されているのですか?

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虚実入り混じる「家康伝説」