ラジオ番組「SUZUKI No.1 Factory」(TOKYO FMなど38局)でもよどみないトークを展開。リスナーからのたった2行のメッセージを瞬時にふくらませ、感動的な4分半の話に着地させた(写真/植田真紗美)

 日本大学文理学部に進学、奈良県出身者の学生寮に入った。松村は早稲田大学第一文学部に入学する。芝居をやるなら東京大学か早稲田大学がいいと聞いていた八嶋は、松村と一緒に演劇サークルを回り、早稲田大学演劇倶楽部(くらぶ)に入った。

 関西から来てなめられたくないという気持ちからか、今より攻撃的でギラギラしていたという。

「気に入らない先輩に突っかかって、喧嘩(けんか)になりそうなことを言うので、僕がちょっと落ち着けと仲裁に入ることもよくありました」(松村)

 1990年、大学2年のとき松村をはじめサークルの同級生5人で劇団「カムカムミニキーナ」を旗揚げ。松村の作・演出で、笑いがあり、ほろっとして考えさせられるような芝居を目指した。最初100人だった観客は4年生のときには1千人に膨れ上がり、期待の劇団として「演劇ぶっく」「ぴあ」などの雑誌に取り上げられた。

 折しも時代はバブル末期。就職しようと思えば就職先には困らなかったが、劇団が右肩上がりだからやめる理由がない。八嶋はアルバイトをしながら役者を続けた。

「でも積極的に役者を選んだわけじゃないんですよ。消去法というか、音楽の才能がもっとあったらバンドでもよかった。小さい頃、親戚の前で踊って喜ばれてから、とにかく人前に出てちやほやされたかった。自己顕示欲と自意識の塊でした」

 他の劇団の公演を観にいき、面白かったら終演後の飲み会にもぐり込む。あいつより自分を出したほうがいいと売り込んだ。

「嫌なやつだと思いますけど、とにかく経験を積みたかった。その頃は生意気で面白いと言ってくれる懐の深い人がいたんです」

 他の劇団の客演やプロデュース公演に呼ばれるようになり、カムカムの評判も上がっていく。

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 この先も俳優で食べていくなら事務所に入ったほうがいいと勧められ、97年、26歳のときにシス・カンパニーと契約した。シスは段田安則、浅野和之らが所属している事務所だ。高校生のときから野田秀樹が率いる夢の遊眠社の芝居を観ていた八嶋には憧れの人たちだった。シスの代表・北村明子(77)は、八嶋を所属させた理由をこう語る。

「カムカムの芝居がとてもよかったし、自分の言葉でしゃべれて前向きにアピールできる人だった。バラエティーを含めた方向でやっていこうと考えました」

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