NHKの「名曲アルバム」という小さな枠が好きで、時々ぼんやり眺めているのだが、こないだ「アイルランド民謡 ベートーベン編曲」というクレジットが出てびっくりした。は~、こんな大作曲家でも自分の作曲でない曲のアレンジの仕事を受けることもあるのだなあ。話は脱線しますが、もしあの交響曲『運命』がベートーベン本人でなく、例えばお弟子さんの編曲(オーケストレーション)だなんてことがもし発覚したら、驚天動地。世界の音楽界を揺るがす今世紀最大の事件となるだろうなあ。ベートーベンの弟子A氏は語る「あたまの♪ジャジャジャジャーンがあまりにも品がない音響なので、私が先生に黙って書き直しました」
と、私のアホな妄想はほっといて。かのミシェル・ルグランさんも自伝でおっしゃっているように(ほめちぎ第47回参照)大方の作曲家にとって、作曲と編曲は不可分の関係にあると思う。私でさえ(謙遜? いえいえ。いつまでも駄文を書き散らかしていないで、己の音楽上の技術の稚拙さを知りもっと精進しろ、たにけん!)「このライン(旋律)オーボエの人に吹いてもらいたいなあ。いいだろなあ。そしたらこのオブリはクラだな。でホルンが遠くで鳴ってて、ここからピアノが入ってくる」みたいに曲を書いている段階から、編曲のアイデアが湧き出てくることが多々ある。だから「あなたは作曲だけしてください。編曲はこちらで上手い人に頼みますから、お任せください」なんて言われたら、相当気分が悪いと思う。幸いなことに、そんなことは今まで一度もなかったけど。
でもまた脱線ついでに告白。こんなことはありました。昔、劇伴の仕事の時に大量の「発注」がきて(ちと話を膨らませて言いますが、プロデューサーからのお願いで、では谷川さん「苦悩というキーワードで3曲」「逡巡という「苦悩」の軽めのバリエーションでABC3曲」「逡巡の、編成薄い版の「ためらい」で2曲」「あっ『煩悩』でも2曲。これは仏教っぽく、音あんまり動かなくていいです」「で、あれも、これも、それもetc.etc.」みたいな「すぐに劇BGMとして使える実用音楽リスト」が積もり積もって計60曲。納期3日(唖然)、もうこうなってくると自分がただの「音楽工場」に思えてくる。とうてい一人では太刀打ちできず、私の右腕に書きなぐった音符のメモを渡して「えーと、このメロ基本ブラスで重く、ここんとこティンパニ入れて、こっからずーんて低弦フォルテで、んで全体1分くらいで明日の朝までに打ち込んどいて。おれはメインの生弦、朝までに書かなきゃなんないから」みたいな状況であくせくあくせく。終わりのない“創造”という名の“生産”。あ~思いだすだけで気が遠くなりそう。私の右腕にも無茶ぶりをいっぱいしたなあ。で、こんな状況でも、右腕氏の仕事は私の仕事の一部分として扱われ、実際の画面のクレジットは「音楽 谷川賢作」だからなあ。これぞ正しく、忸怩たる思い、の一言あるのみ。
まあ上記は極端な例(本当にあったことだけど)だが、「編曲」に関していうと、こんな経験もある。
多くの歌い手さん方のピアノ伴奏を務めさせて頂くのだが、頂く譜面がまあピンからキリ。もちろんイントロもエンディングもしっかり書かれていて、曲の進行もはっきりと指示されている、きちんと「編曲」された美しい譜面を頂くことの場合のほうが多いが、中にはただのメモ譜もある。イントロ、エンディングが書いてないばかりでなく、メロディについているコードネームもデタラメ。曲の進行もおまかせ。こうなってくると伴奏でピアノを弾くことそのものが「編曲」になる。で、簡潔に自分用に書き直して、それを弾いているとその歌い手さんから「あっその譜面いいですね。くれますか?」だと!? 図々しいったらありゃしない。プンプン。
って、今回ぜんぜん誰もなにも「ほめちぎ」っておりませんねえ。ため息。
本当は佐村河内守氏のドキュメンタリー映画『FAKE』から作曲と編曲の関係を掘り下げてみたかったのですが、どうしても考えがまとまらなくて。この映画のラスト12分間のネタばらしは禁じられているので、歯がゆいのですが「聴覚障害の度合い=感音性難聴」とか「真実vs偽り、正義と悪=社会の二分化とバッシング」という観点ではなく、きちっと「技術、技法としての作曲、編曲とはなにか」で、いつか『FAKE』について書いてみたい。
しかし「打ち込み」というテクノロジーの進化が技法としての作曲を変えてしまったのか? 私はピアノが前にないと作曲も編曲もできないが、ピアノから離れて「製図台」を前にして「脳内だけで音を鳴らして」作編曲をするという凄い方もいらっしゃる。いや、これは皮肉で言っているのではなく、ベートーベンもそうだった。♪ジャジャジャジャーン [次回7/25(月)更新予定]