だが、90年代後半以降、“雪解け”が進み、99年から退団した元プロ野球選手の社会人チーム入りが認められるようになった。プロ野球選手として生きる場所をなくした宇野にとって、前年から社会人に受け皿ができていたのは、幸運だった。
日中は業務用のマットやモップの交換などの仕事に追われ、野球の練習は夕方からという毎日。宇野は「働きながら野球をして、自分の考えの甘さがわかった。もう一度プロでやりたいという気持ちが強くなった」(週刊ベースボール05年4月4日号)とNPB復帰を目標に精進を続ける。
社会人5年目の04年、26歳になった宇野は、140キロ台半ばの速球と切れの良いスライダー、フォークを武器に、都市対抗の中国地区第1代表決定戦、三菱自動車水島クラブ戦では、惜敗したものの8回途中まで10奪三振と好投。その後、第2代表として初出場した都市対抗でも、リリーフで登板した。
だが、同年10月、経営母体の東洋観光グループが合理化のため、翌年限りの廃部を発表。年齢的にラストチャンスの宇野も、社会人日本選手権の地区大会敗退後、12球団合同トライアウトを受験した。そして、140キロをマークしたのが、ヤクルト・安田猛編成部長の目に留まり、6年ぶりのNPB復帰が決まる。
NPBを戦力外になった選手が、社会人を経て復帰したのは、前出の柳川事件以降では、03年の渡辺孝男捕手(西武‐サンワード貿易‐日本ハム)に次いで2人目。投手では初めてだった。
12月の入団会見は、くしくも巨人で同期入団だった三沢(2度目の巨人退団後、トライアウトを経てヤクルトに移籍)とともに行われ、「巨人のときは雲の上の人でしたが、入ってしまえば一緒」と対抗意識を燃やした。
「テスト入団で多くのチャンスがあるとは思っていませんから、毎日が勝負です」とひたすら上を目指した宇野は翌05年、イースタンで登板33試合、2勝1敗5セーブ、防御率2.12の好成績を残し、9月にドラフト指名から9年後の1軍初昇格。同7日、古巣・巨人戦で、14対3とリードした9回に3番手としてリリーフすると、高橋由伸に中前安打を許したものの、最後は十川孝富を三振に打ち取り、1軍デビューを無失点で飾った。