時に「事実は小説より奇なり」と言われることがあるが、歴史上の科学者たちにもこの言葉は当てはまったようだ。今回紹介する『マッドサイエンティスト図鑑』(彩図社)では、新しい発見や技術を追及するあまり、倫理を無視し狂気を宿した「マッドサイエンティスト」33人の真実に触れることができる。いかがわしい科学者のみならず、教科書で馴染みのある偉大な科学者でさえも持ち合わせた、意外な一面を知れる一冊であろう。
同書は、常軌を逸した天才科学者たちを4つの章に分けて紹介している。例えば第1章「狂気を宿した科学者」の中で記されているのが、イギリスの外科医で解剖学者ジョン・ハンターだ。児童文学書『ドリトル先生』シリーズの主人公のモデルともされるハンター。「マッドサイエンティスト」とはほど遠い印象だが、どんな狂気をはらんでいたのだろうか。
1748年にロンドンで開業医として働いていた兄の助手となったハンターだが、当時は医療の知識や技術を高めるために、人体解剖の訓練を重ねるしかなかった時代。外科医たちはこぞって解剖用の遺体を入手するために奔走していた。
「自らも解剖にのめり込んだハンターは、遺体の調達をより円滑にするため、そのしくみをビジネス化した。プロの墓泥棒に注文をだし、遺体を袋詰めにして納入させ、代金を支払う。
やがてロンドンでは、墓泥棒と結託して遺体を切り刻む男、『切り裂きハンター』の噂がかけめぐった」(同書より)
深夜の墓場に潜り込み、埋葬されたばかりの棺をあけることもあったハンター。医師でありながら遺体調達をビジネス化し、できるだけ多く解剖することに異常に執着していたようだ。
果たして彼は、心から医学の発展のために行動していたのだろうか? 解剖しているときのハンターは、遺体に対して苦悶の表情を浮かべていたようには思えない。きっと、新たな発見に胸を躍らせ、悦楽した表情で遺体にメスを入れていたのではないかと想像してしまう。
ハンターの二面性を知ることで、残虐性に不安の影がちらつきながらも、彼の狂喜に少しの高揚をおぼえる。両方の感覚がせめぎ合う独特の感覚は、『マッドサイエンティスト図鑑』を読む上での醍醐味ともいえるだろう。
「マッドサイエンティスト」と聞くと、何となくドロドロとした暗い狂気を連想するが、爽快なほどにハチャメチャだったのが、日本の科学者・南方熊楠だ。当時の「大学予備門」(現・東京大学教養学部)を落第になった南方は、1886年にアメリカに留学。そこで最初の事件を起こしてしまう。
「禁酒だった宿舎内で友達とウイスキーを飲んで泥酔し、裸で廊下に寝ていたところ、校長にみつかってしまう。この飲酒事件もあって、学校は1年ほどで退学することになる」(同書より)
その後キューバに上陸した南方だが、当時のキューバは独立戦争の真っただ中。そんな中で、彼は本とピストル一挺をたずさえ、動植物の採集に出かける。新種の地衣植物を発見するなどの成果を上げ、次に向かったのはイギリス・ロンドンだ。
ロンドン時代からは、科学誌『ネイチャー』などへの投稿を開始。同誌には51編の論考が掲載され、これは著者ひとりあたりでは歴代最高本数だという。しかし、彼はロンドンでも事件を起こす。大英博物館の図書館内でイギリス人に絡まれた南方は、衝動的に彼を殴ってしまった。
「前代未聞、大英博物館の図書館内での暴力事件である。博物館から追放となった熊楠は、1か月後に復帰をゆるされるが、泥酔しているところを警官に取り押さえられ、永久追放となる」(同書より)
日本に帰国後、またも南方は事件を起こしてしまう。和歌山県主催の講習会に酔ったまま乱入し、役人に向かって菌類の標本入りの袋を投げつけたのだ。結局、「家宅侵入罪」で18日間の投獄処分となった。
しかし、転んでもただでは起きないのが南方だ。彼は獄中で「ステモニチス・フスカ」という粘菌の原形体を発見。さらに、獄舎の庭に咲いていた草の実が鼻煙草の代用になることを知っていたので、その草を集めて喫煙も楽しんでいたという。
豪快な生き様を貫いた南方は、昭和天皇が戦後に詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という歌にも登場。天皇の歌に民間人の名が刻まれるのは稀なことで、彼の残したインパクトの強さが伺える。
多くの偉大な科学者たちが、常識を超えた発想や実験を行うことで新たな知識を切り開いてきたことは言うまでもない。『マッドサイエンティスト図鑑』では、そんな科学者たちの狂気的な側面に触れ、科学の歴史に異なる視点をくれる一冊になるだろう。