背景には高度経済成長期に入ったバングラデシュの経済環境があるといわれる。全国に大学が新設されたが、見合う就職先はそれほどなかった。一方で公務員の待遇はよくなり、かつて5000タカ(約6000円)ほどだった月給は3万タカ(約3万6000円)にもなった。40万人を超える新卒者が3000人という公務員職に殺到した。優遇枠に非難が集まるのは当然だった。
デモには野党勢力も加わっていく。バングラデシュは与党のアワミ連盟と野党バングラデシュ民族主義党の2大政党という構図である。その色分けは、アワミ連盟が世俗主義を掲げイスラム勢力と距離を保っているのに対し、バングラデシュ民族主義党はイスラム寄りだった。周辺国との関係でいえば、前者は親インド反パキスタン、後者は反インド親パキスタンになる。そのほかに穏健なイスラム原理主義政党であるイスラム協会がある。
デモは日に日に膨れあがっていった。これに対して与党アワミ連盟のハシナ首相は強硬手段に出る。デモ隊と警察が衝突し、7月16日から8月11日にかけて約650人が死亡したと国連は報告している。犠牲者が増えることでデモはますますエスカレートしていった。
あの日が転機だった……
そして8月5日を迎える。ハシナ首相が辞任し、インドに脱出したことが伝わった。デモ隊は首相公邸や国会議事堂などを次々に占拠していった。
連日デモに加わっていたダッカ大学の博士課程の学生Tさん(26)は、
「僕らの要求は、公務員の採用枠の差別撤廃だった。社会を変えたかったんです。首相が辞任したことで僕らは歓喜の渦に包まれた。でもすぐに空気は変わったんです。8月5日、ハシナ首相の辞任を待っていたかのように、ラーマン元大統領の銅像にのぼって像を倒そうとする人たちがでてきたんです。僕らや野党の人たちも、そんなことは考えてもいなかった。いまになって思えば、あの日が転機だった……」
と振り返る。
ラーマン元大統領はバングラデシュを独立に導いた英雄として理解されている。いってみれば、党派を超えた建国の父でもある。その銅像を壊すという行為は、バングラデシュ人には考えられないことだった。ラーマン元大統領の銅像を壊そうとしたのは、パキスタンの指示を受けた若者たちだという噂が広まった。