さきに秦王は、将軍の「計」を用いなかったために李信が秦軍を辱める結果になったと王翦に謝った。再度六〇万でなければだめだと念を押す王翦に、秦王は将軍の「計」を聴くのみだと述べている。この「計」とは漠然とした軍の「計略」というよりは、六〇万という数値をはじき出した「計算」を指しているのだろう。

 秦王は、咸陽からわざわざ東の灞水(はすい)のほとりまで赴き、六〇万の軍を見送った。列伝ではその理由は述べられていないが、灞水を渡ると驪山(りざん)があり、その山麓には曽祖父・昭王と、父・荘襄王の陵墓があった。みずからの陵墓も驪山に建設中であった。秦王は、先王の廟に王翦と兵士たちを拝礼させ、戦地に向かう決意を固めさせたのかもしれない。

 王翦軍はそのあと「関」を出たと記されている。対楚戦なので、この関は函谷関(かんこくかん)ではなく南の武関であろう。武関であれば、先王の二廟は通り道である。

 半世紀前の昭王の前二七八年に楚都・郢(えい)を陥落させたのは、白起将軍であった。王翦将軍は、昭王廟で同じ秦の内史出身の白起の事績を思い起こし、対楚戦の手本としたのではないだろうか。

《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、趙・楚・斉など「六国」を滅ぼすまでの経緯を解説。羌瘣(きょうかい)や龐煖(ほうけん)など、将軍たちの史実における活躍も詳述している》

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書)
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