「独逸国際移動写真展」が東京朝日新聞本社の展覧会場で開催されたのは、告知よりやや遅れて4月13日からの10日間。映画の部を外した約870点が「写真術の発達する歴史的標本」「近代写真の応用」「個人製作」「応用的自由加工写真」という4部構成で展示された。同展は7月には大阪にも巡回された。

 早速、4月18日の「東京朝日新聞」紙上には森芳太郎の展評「写真術の全機能を展開した『ドイツ国際移動写真展』」が掲載された。本展はドイツの「新運動が打建てた最初の華やかながい旋塔」で、その「オリヂナルに接した味は又特別」で「望外の幸福」でもあったと森は書いた。

 本展の影響は若い世代ほど大きかった。花王石鹸の販売元、長瀬商会の嘱託として広告写真に取り組んでいた木村伊兵衛は、当時30歳。本展を見て「古い写真に対する執着や新しい写真への疑問は一掃された」(『木村伊兵衛傑作選』)。木村より3歳下、浪華写真倶楽部の安井仲治は「写真は機械がやるものだと真っ向から認めており、それが愉快」に思え、そこから新興写真という「火の中へ栗を拾いに行」ったのだと語っている。(本誌34年2月号「関西写真界の新人を集めて 写壇総まくり座談会」にて)

 本展をピークとする新興写真の啓蒙運動は、写真界の流れを完全に変えてしまうのだが、ことに関西写壇において顕著だった。それは翌年の第2回広告写真懸賞で、関西のアマチュアの応募入選が、遥かに関東を凌いだことで明確になった。

 手元にある浪華写真倶楽部の創立100周年の記念展図録『浪展』を見ると、新興写真の影響は29年から始まったとある。まず上田備山が「従来の作風と決別し」、小石清、花和銀吾、福森白洋が例会に「写真集やフォトグラム」を持ち込むようになった。そして、古手の会員が「沈黙し、また退会していった」のだった。

 新旧交代の成果は30年の第19回浪展に現れた。ことに写壇の注目は、本誌10月号にも掲載された、ブレた映像をそのまま定着させた「進め」で特選をとった、最年少作家の小石清の先鋭的な表現に集まった。彼の才能は第2回広告写真懸賞で1等を獲得したことによって広く知られ、さらに32年には超現実的な表現で、潜在意識を視覚化した写真集『初夏神経』の出版で完全に開花する。

 また中山岩太が設立した芦屋カメラクラブは、「独逸国際移動写真展」の直後に、同じ朝日新聞東京本社で「芦屋カメラクラブ展」を開催。その作品は6月号に掲載され、ただ新興写真を摸倣するだけでなくそれぞれが個性的である点が高く評価されている。

ジャーナリズムとグラフィズム

 もうひとつ関西写壇に表れた変化がある。それは広告だけでなくジャーナリズムの分野における実用化だ。31年9月号の「写壇ホームニュース」欄のトップに「全関西写真連盟が実社会方面への進出」という記事が紹介するのは同連盟本部が8月1日付で会員に通達した「ある目論見」である。今後、連盟員は「連盟の母体であり、培養者であり、財的後援者である大阪朝日新聞社の新聞事業に関連した」活動を試みるべしとし、「天変、地異、事変その他何に限らず重大な出来事」に遭遇した折には、それを撮って送るように依頼している。そのように社会現象に注意を払うなら、写真はいっそう上達して「社会と直ちに呼吸し合うやふな快感をすら覚える」ことになると通達は謳っている。

 通達の成果は2カ月もしないうちに生まれた。9月20日夕刻、旧満州(中国東北部)の奉天郊外の柳条湖付近でおきた満州事変を知らせる写真号外が他社に先駆けて大阪本社から発行されたとき、その掲載写真のなかに全関西写真連盟のアマチュア写真家によるものが含まれていたのだった。

 撮影者は奉天在住、28年に渡満していた淵上白陽が設立した満州写真作家協会の山本晴雄だった。本誌11月号には実名抜きではあるが、この件が誇らしげに取り上げられている。記事には、山本は連盟からの通達を受け取るとすぐ返信を送っていたとある。そこには、満州では「支那人」が横暴で排日気分が横溢し「支那軍隊」が何か陰謀を企んでいるという風説もある、そこで自分は「萬一のことがあれば国民として、連盟の一員としてできるだけのことを盡くしたい」と決意が述べられていたという。

 もちろん、こうした声はアマチュアたちの主流を代表するものではない。だが多くの読者にとっても、写真とジャーナリズムの関係を意識せざるを得ない社会的な状況が迫っていた。

 つまり翌32年1月には第一次上海事変が起こり、3月には満州国が建国され、5月には五・一五事件が起きた。33年3月には日本は国際連盟を脱退。国際社会から日本が孤立していくなかで、写真や映画などビジュアルメディアによる海外宣伝が急務となり、そこにアマチュアは巻き込まれていくのである。

 例えば34年4月号で本誌が外務省の国際観光局、その外郭団体の国際観光協会、そして両写真連盟とともに「海外宣伝用写真懸賞」を募集したのもその一環だった。この懸賞で1等を獲得した「大阪城」が、関西写壇における新興写真の旗手とされた小石清の作品だったことは印象的である。

 こうした動きのなかでは、写真だけでなく、掲載する誌面にも新たな工夫が求められるのは当然だった。もともと新興写真は、写真を印刷メディアで効果的に展開することを前提としていたし、ドイツのウルシュタイン社の「ベルリーナ・インストルーリテ・ツァイトゥング」、フランスのラルース・フランセーズ社の「ヴュ」、またソ連の対外宣伝誌「建設のロシア」などのグラフ雑誌の斬新な誌面構成は日本でも注目され模倣した雑誌も多い。

 本誌もこれらを手本に33年7月号において誌面を一新し、矩形を基調にした新興写真的グラフィズムを大胆に実践した。この号は大きな評判となり数日で完売。「世界写真雑誌中の白眉であった」(福森白洋)など、多数の写真関係者から賛辞を受けたと翌8月号の編集後記にある。

 そして9月号には、ドイツで活躍する日本人写真家が初めて登場する。ウルシュタイン社と契約している名取洋之助が「ドイツの『ルポルタージュ』写真家について」でルポルタージュ・フォトを報道写真としてを紹介したのである。

 その報道写真を事業化するために名取が木村伊兵衛、評論家の伊奈信男、図案家の原弘、岡田桑三らと日本工房を銀座に設立したのはこの年7月のことである。

※「支那人」、「支那軍隊」は原文ママ

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