懐かしい話ばかりではない。話題はペテルブルクやモスクワで過ごした留学時代やロシア文学のこと、ネットを通じて今もやりとりを続ける文学仲間や教師との会話へと広がる。テーマはウクライナ侵攻であったり「源氏物語」であったりとさまざまだ。時には過去の戦争に遡り、言葉を武器に国の蛮行を批判した百年前の詩人について熱を込めて語る。熱狂する国から「脱走」し、距離を置いて生きた人々の姿は、ウクライナ侵攻が起きた現代でも無縁ではない。

 本の終盤で奈倉さんが原発のある新潟県柏崎市に家を買い、引っ越したことを知る。奈倉さんが真冬に旅した柏崎は土地も人も良いところだった。だが福島第一原発の事故後は危機感も高まり、柏崎でも再稼働の可能性が濃厚になると空き家が増え、人々は外へ出ていくばかりという。

「東京にいると、原発について書かれた本以外のところでは原発に触れることができない空気があるように思います。原発のすぐ近くで普通に暮らしている人たちがいるのに。真冬の雪国で原発事故が起きたら避難なんてできないですし、現地にいる限りその不安を背負い続けなきゃいけない。自分がその立場になってみないとわからないことばかりで、もうここを立ち去ることはできないと思ったんです」

 この気持ちは「柏崎の狸になる」という章になった。考え抜かれた言葉は柔らかく、じんわりと沁みてきた。

(ライター・千葉 望)

AERA 2024年9月30日号

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