剣を振りかざした中大兄皇子の前で倒れこむ蘇我入鹿(いるか)。刎(は)ねられた首からは血が噴きだし、その頭部は舞いあがるように宙に浮かんでいる──教科書にあった大化改新(乙巳の変)を描いた絵巻の印象は強烈で、蘇我氏には、天皇(大王)をも凌ぐ権勢を誇るあまり、ついにはクーデターを起こされて滅亡した一族という「悪」のイメージがつきまとう。
しかし、日本古代政治史を研究する倉本一宏の『蘇我氏』を読むと、史実は違う。滅ぼされたのは蝦夷(えみし)-入鹿系といった蘇我氏本宗(ほんそう)家のみで、乙巳(いつし)の変後も、新たな氏上(うじがみ)となった倉麻呂系が中央豪族である大夫(マヘツキミ)層を代表する大臣(オホマヘツキミ)に就いている。ちなみに、蘇我氏には12もの同族氏族がいたらしい。
また、以前と同じく蘇我氏出身の女性は大王家の后となり、その血を引く王族は奈良時代半ばまで重要な位置を占めた。倉本は「蘇我氏濃度」なる数値が付された系図を用い、蘇我氏の血が持つ影響力の大きさを明示している。
始祖である稲目(いなめ)から馬子(うまこ)、蝦夷、そして入鹿までは絶大な勢力を誇った蘇我氏。本宗家が滅亡した後もしばらくは力を維持したが、壬申の乱とその後の混乱によって立場が危うくなり、天武天皇の時代に「石川」に改姓するも、律令体制下で蘇我氏と同族氏族の地位は次第に低下していく。しかし、「宗岳(そが)」に再び改姓して平安時代末期まで生き抜いた蘇我氏を、〈立派としか言いようがない〉と倉本は評価する。
こうして蘇我氏の興亡にふれて思い知るのは、政略結婚の威力だ。王権との〈ミウチ的結合〉を重ねることで権威も権力も高めていく構造は、そっくり蘇我氏から藤原氏へと引き継がれている。その意味で、蘇我連子(むらじこ)の娘を妻にして自身と子孫の尊貴性を高め、新興氏族にもかかわらず蘇我氏の継承者と周囲に示した藤原不比等の才覚には畏れ入る。後の藤原氏の栄華の礎には、蘇我氏の血が隠れていたのだった。
※週刊朝日 2016年4月29日号