被爆者の切明千枝子さん(右)の被爆体験を伝承する松谷文緒さん。2024年3月、勤めていたKADOKAWAを退職した(写真:松谷さん提供)
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 8月15日で終戦から79年。戦争を体験した人が少なくなり、凄惨な記憶も薄れつつある中、家族の被爆体験と向き合い、伝えようとする人がいる。PRディレクター・松谷文緒さん(55)だ。AERA 2024年8月12日-19日合併号より。

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 東京都に住む松谷文緒さんは、2020年から、仕事の合間を縫って片道4時間かけて広島に通っている。被爆体験を語り継ぐ「伝承者」を目指しているからだ。これまでに広島に通ったのは17回。新幹線代、ホテル代を考えると、経費は100万円を超えている。

 大阪育ちの松谷さんの両親の実家は広島県で、母方の祖母は25歳、母は3歳で被爆している。祖母と戦争の話をしたことはなかったが、05年8月6日、帰省していた松谷さんは、祖母と2人きりで掘りごたつに座っていた時、何の気なしに「あの日はどうだったの」と聞いてみた。祖母はたちまち「わーっ」と大声で泣き、こう声を絞り出した。

「申し訳ない。すまないことをした」

娘を守りきれなかった

 普段はしっかりした祖母なのに。松谷さんは「何に謝っているのか」と混乱したが、それ以上聞くことはできず、後に母に話を聞いた。

 祖母の実家は広島市から車で1時間ほどの距離にある呉市。軍港があったため何度も空襲があった。「呉は危ないから、広島市に行った方がいい」。軍港で働く祖父は残り、祖母と母たち姉妹は広島市の親戚宅に身を寄せていた。

 そこは、爆心地から2.5キロ。午前8時15分、家の中にいた祖母も庭で遊んでいた母も爆風で吹き飛ばされた。がれきに埋まった母を祖母と伯父が見つけ、引っ張り出して助け出した。家の前を身体がぶよぶよに腫れあがった人たちが歩いていた。祖母はシーツを切って作った包帯で、大やけどを負った人たちに手当てをしたという。

 被爆者である母は30歳を超えてからは、何度もがんを発症し、祖母は「娘を守りきれなかった」と後悔していたのではないか。そう思ったが、足がすくみ、すぐに動き出すことはできなかった。

 約15年が過ぎた20年。コロナ禍で在宅勤務になり、あれこれと考える時間が増えた。自分もコロナで死ぬかもしれない。そう思っていた20年8月10日、祖母が99歳で亡くなった。「また一人、被爆者がいなくなったんだ」。自分がこの世に残さなければ、後悔することは何か。一番に浮かんだのは、広島だった。

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自分を責める被爆者