土方は彼らが寝入ったのを確認すると屯所の前川邸に戻り、もう一度、様子をうかがいにやってきた。そして、それから20分ばかりもしたときに、式台から抜刀した4人の男が飛び込んでくる。八木家の三男の為三郎は、刺客には確かに沖田総司と原田左之助がいて、山南敬助もいたようだという、現場を目撃した母親の話を『新選組遺聞』に語り遺しているが、土方もこれに加わっていた。

水戸藩は、尊王攘夷運動の思想的な先駆けとなった水戸学が形成された地。芹沢も玉造組に参加するなど勤王の志が強かった。

 襲撃を受けて傷を負った芹沢は素早く布団を抜け出し、廊下を伝って隣の部屋に逃げ込んだ。しかし、入口でつまずき、倒れたところを切り刻まれて絶命する。芹沢と寝ていたお梅は首が落ちそうなほどに斬られ、平山の首は落ちていた。平山の相方は襲撃時に厠に立っていたため無事だったと伝わる。

 平間らは無傷だった。免許皆伝だった芹沢・平山に対し、平間の腕前は目録であり、平間を生かしておいても復讐される恐れはないとして、殺害の対象から外していたのだろう。

 暗殺は長州藩によるものとされた。翌々日、芹沢と平山の葬儀が行われ、壬生村共同墓地に埋葬された。墓碑には「十八日卒」と刻まれているが、この日に埋葬されたのである。

 前出の為三郎は、決行日は雨天だったとしていて、市中の公家や商人の日記にも降雨と記録されている。しかし、十八日には降雨の記録はないのである。

 命拾いした平間は京都を脱し、明治七年(1874)に郷里の常陸国芹沢村で死亡している。

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から

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