三二歳にして九歳以前の記憶を思い起こし、わざわざ占領地まで危険を冒して赴く。このような君主の行動は、ほかに聞いたことがない。趙の国に対する復讐心の強さが感じられる。そして当時の戦争そのものが正義の御旗(みはた)のもと、その背後に君主個人の意志の強さがあったことを見てとることができる。
始皇二三年も、正規軍の王翦が楚の旧都の陳から南を占領し、荊王(楚王)を捕虜にした直後に秦王はわざわざ現地に赴いた。この歳の四月、楚に戻っていた昌文君が亡くなっていたことが、出土史料の睡虎地秦簡の『編年記』にのみ記されていた。かつて嫪毐(ろうあい)の乱のときに秦王軍側で貢献した人物である。呂不韋の時と同様、弔う目的があったかもしれない。
《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、李信、騰(とう)、羌瘣(きょうかい)、桓齮(かんき)、李牧(りぼく)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》