始皇一九(前二二八)年に王翦と羌瘣が「尽(ことごと)く趙地の東陽を定め取りて趙王を得」というのは、邯鄲から東に逃亡する趙王を東方で捕らえたことを言っている。秦の三軍の邯鄲包囲網の勝利であり、このときの趙国はすでに邯鄲を中心とする国土に狭まっており、秦の占領郡にも包囲されていたのである。
邯鄲陥落からさかのぼること二年、始皇一八(前二二九)年は趙の年号では趙王遷七年であり、趙王遷の治世下であった。秦の趙攻撃に際して迎えたのは趙の大将軍の李牧と将軍司馬尚であった。しかし趙王の寵愛する臣下の郭開(かくかい)が秦からの間金を受け取って反間(スパイ)となり、李牧と司馬尚の反逆を讒言した。
趙王は李牧と司馬尚に交替を命じたが、李牧は拒否して斬殺された。趙王遷を守ったのは交替した趙葱(ちょうそう)と斉の将軍顔聚(がんしゅう)であった。もしこれまで秦軍に常勝していた李牧が王翦らに対抗していれば、情勢は少し変わっていたかもしれない。秦の隠密外交の勝利でもあった。
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