営業にやりがいも書き続けた外国志望3度の海外を経験へ

 大学時代に友だちと欧州へ旅行して「将来は国際的な仕事をしたい」と思い始める。就活でキリンビールが「次は国際化」と打ち出しているのを知って、「日本のビールを海外で売る草分けになれればいいな」と思って入社した。以来、どれだけ営業にやりがいを感じても、やりたい仕事の申告書に「海外で仕事をしたい」と書き続ける。結局、米国留学と豪・米のグループ会社勤務で、海外へ3度いった。

「キタ」の担当になる5カ月前の90年11月に結婚した。神戸市育ちの女性で、大学時代の関西出身の友人に紹介され、1年ほど付き合った後だ。それまでいた独身寮があった兵庫県西宮市も、『源流Again』で訪ねた。JR甲子園口駅の近くで、家族寮に模様替えした後に売却され、マンションの建設が始まっていた。周囲をみると、住んでいたころのように空き地はなく、すっかり住宅地になった。

 大阪で10年目の95年1月、阪神・淡路大震災に遭遇した。独身寮を出て住んでいた阪神電車の甲子園駅近くの家は無事だったが、周囲は倒壊し、高速道路が崩れ落ちた場所も近い。

がれきの間を走り水を届けた店が再開思わず目が潤む

 直後から、自宅から2キロの独身寮時代に走っていた武庫川沿いで、浄水場が飲料水を無料で提供していた。毎日、支社へいって会社が用意したポリタンクをいくつも営業車に乗せて帰り、浄水場で水を詰め、阪神のがれきの間を走った。酒販店とともに開拓した取引店へ、水を届け続ける。本当に喜ばれた。

 やがて被災した店が営業を再開できたときは、思わず目が潤む。いまの時代は「理」がどんどん強くなっているが、「情」の大切さを痛感した日々。大阪はその点でも、社会人人生で大きな存在だ。「第2の故郷」とも思っている。

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