独身寮時代に、この武庫川沿いで走った。寮から約1キロ、河川敷沿いに7キロほど。だから、浄水場があることは知っていた。豪州で始めたマラソンも、いずれ再開する(撮影/狩野喜彦)

わずか2年で異動に「何かまずかったか」その心配消す抜擢へ

 5月末、「キタ」の街を、連載の企画で一緒に訪ねた。昼食どきで、ネオンの灯が連なる日暮れ後とは光景が違う。でも、堀口英樹さんがビジネスパーソンとしての『源流』とする「人間関係を鍛えられた街」だ。一歩、踏み入れれば、30年ほど前の「一斉活動」が甦る。

 営業第2部への異動は、突然だった。東大阪支店で枚方市の「街の酒屋さん」を約200店受け持ち、失敗もあったが、店主の家族に可愛がられて泊まり込んだ店も少なくない。食い込めた、との手応えはあった。一方、普通は在職2年での交代は短い。「何かまずかったのか」と心配したが、違う。少数のえり抜き部隊への、抜擢だ。

 支社があった御堂筋沿いへもいった。イチョウ並木の緑が、鮮やかだ。大阪へ赴任したときも、そうだった。ビルは姿を変え、他社が使っているので入らないが、前に立てば様々なことが浮かぶ。「キタ」で受け持った業務用酒販店に、関西で最大だった「名畑」があった。『源流Again』で、社長の名畑豊さんに会う。大阪にいた当時は専務で、世代も近く、よく飲食やゴルフのお供をした。

 このころ、前号で触れた「YOUを第一に考え、次にWE。自分=Iはその後だ」という人間関係の基本を、鍛えられた。

 名畑さんは、キリンビールの銘柄名を描いたネクタイ姿で現れた。「キタ」の担当になる1年前に発売した「一番搾り」のキャンペーン品。まだ持っていてくれたことに「ありがたい」と思う。ただ、初めて会ったときのことは「覚えていない」と言われ、ちょっと残念な気がした。でも、「真面目な堅い方がこられたな」との印象を加えてくれて、ほっとする。

 1962年1月に埼玉県川口市で生まれ、小学校2年生になるときに父・操さんが買った神奈川県藤沢市の家へ転居した。父はラジオ局の技術部に勤務、母・朱生さんは専業主婦。弟と4人家族だった。地元の中学校で放送部へ入り、父の影響か、音楽が好きだった。県立湘南高校と慶応大学商学部を通じて、ハンドボールに打ち込む。

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