子どもだった頃の私は、両親の結婚離婚で住む家や苗字が変わっていく中、大人にもみくちゃにされて生きているような気分だった。それでも、大人は大人で大変なのだから迷惑はかけられまい。泣いて喚きたいのを堪えた日が、沢山あった。
 

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大人になってから、周りには自分が想像する以上に、様々な家庭があることを知った。誰もが家族との関係の中で苦悩しながら、幸せを追求して頑張っているということに気づいた。
そうして私はようやく、思い出の中にいる三人の父親の存在を、ゆっくりと認められるようになった。

私の家族でいてくれた父親たち。彼らが今どこで、どんな人と暮らしているのか、私は知らない。彼らは、母や私やきょうだいたちのことはもう思い出さないかもしれない。それでも私は、彼らの今の暮らしがどうか幸せなものであって欲しいと、心から願っている。

父親はもういない。私の中で「父親」は、永遠に空席だ。

けれど、その「父親」の席にいた人たちがかつて私を育ててくれたのは確かで、今も私の一部として、思い出として存在してくれている。

三人の父たち。これからもずっと、私を見守っていてね。
 

「AERA dot.」鎌田倫子編集長から

 遺伝上の親とは、育ての親とは?

 ライフステージよってもその存在の意味は変わってくる。3人の父親の登場によってそれがうまく表現されていますね。

 最後の一文が印象的でした。

“「父親」は、永遠に空席だ。”

 父親という存在について、自分の中でうまく消化できたということでしょうか。精神的にも自立して人生の新しい段階に踏み出した、そんな空気を感じました。
 

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