本隊が寿陵にあったからこそ、そこから鋭師が別働隊として蕞に向かったのだと考えられる。秦にとって見れば深刻な事態であった。しかし戦争の記録は、できるだけ自国の被害は過小に記録する傾向がある。

 始皇六年の合従軍の侵入は、秦側の記録では軽微に扱われ、簡単に撃退したことになっているが、場所が場所だけに、当時一九歳だった秦王のトラウマになり、その後の行動に大きな影響を与えたことだろう。三九歳で天下を統一したときの秦王は、次のように当時を振り返っている。「魏王は始めは約して服して秦に入るも、韓、趙と合従して秦を攻めたことが秦との約束(連衡)に対する背信行動である」という。

 二〇年も前のことを持ち出したことからも、その傷の深さがうかがえる。

朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、李信、騰(とう)、羌瘣(きょうかい)、桓齮(かんき)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》

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