一方、蒙武と蒙恬の父子には、そのような連携はまったく見られない。蒙武は楚を最後に滅ぼす戦闘で、同世代の老将軍・王翦と行動を共にして戦果を挙げた。一方の蒙恬は、王翦に先んじて若い李信とともに楚を攻撃し、敗北している。李信はその後に挽回し、同世代の王賁と燕を攻めて滅ぼすと、斉に向かった。蒙恬はその若手将軍の列に加わって斉を滅ぼした。これは蒙武と蒙恬の連携ではなく、王翦と王賁の父子の連携による。

 秦は大国である楚の攻撃には老獪な王翦と蒙武に任せ、無血降伏することになる斉には若手の李信・王賁・蒙恬に任せる戦術をとったわけだ。経験のある王翦の主導であり、遠方は機動力のある子の王賁ら若手将軍に任せたのである。

 ちなみに、秦の将軍について始皇帝亡き後は、秦末から楚漢戦争を記述した『楚漢春秋』などにおいて否定的に語られている。これは、反秦軍が秦の将軍の不遇を強調することによって、投降を誘う口実としていたことが大きい。

朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、羌瘣、桓齮、龐煖、李牧ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》

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