有名な将軍家としては蒙家と王家が知られ、秦の中国統一は、両将軍家の活躍によるところが大きかった。
蒙驁・蒙武・蒙恬(もうてん)の蒙家は、三代続いた秦の将軍である。蒙恬は六国最後の斉を滅ぼした功績によって、統一後は内史となった。統一後の始皇三二(前二一五)年、蒙恬は三〇万の兵を率いて北方の匈奴を追い、河南(オルドス)を取り、臨洮から遼東に至る万里の長城を築いた。
一方、王翦・王賁(おうほん)・王離(おうり)三代の将軍についてある者は、「将為ること三世なる者は必ず敗る。必ず敗るは何ぞや。必ず其の殺伐する所多ければ、其の後其の不祥を受けん」といい、王離が名将であることを否定した(王翦列伝)。三代も続けば、敵方を殺戮する数が多くなり、その報いが三代目にかかってくるという奇妙な理屈を述べている。
三世代将軍といっても、三世代が同時に戦場に出ることはなく、せいぜい父子の二世代である。王翦と王賁の父子の連携は、同一の戦場ではなかった。王翦が蒙武と共に楚の戦闘に集中している間に、息子の王賁には遼東に遷った燕王を追わせた。王翦はその前に、荊軻(けいか)による暗殺未遂を起こした燕を攻撃していた。王翦は遼東まで逃亡した燕王を追うには高齢であったために、子の王賁に任せ、自分は対楚戦に集中し、さらに越君を降伏させることもできた。