こうしてバルチック艦隊のマダガスカル逗留は延々と続く。乗組員の規律は乱れ、先行きに絶望し自殺者も後を絶たない。さらに満州のロシア軍は遼陽、旅順に続いて奉天会戦でも敗れたという。
ロジェストヴェンスキーは満州のロシア軍が負けたからには日本軍は必ず樺太を占領し、ウラジオストクも封鎖するか占領するに違いないと考えた。ならば封鎖される前に艦隊をウラジオストクに運ばなければならない。そう決断した彼は三月十七日の午後、第三艦隊を待たずに出航した。2カ月半ぶりの航海である。そして四月十四日に仏印のカムラン湾に入り、そこからヴァン・フォン湾へ移動し第三艦隊と合流するため再び1カ月の逗留を強いられた。
バルチック艦隊のこれらの足踏みは、東郷平八郎大将率いる日本の連合艦隊にとっては貴重な訓練と入念な艦艇修復の期間となった。連合艦隊は猛烈な砲撃訓練を連日繰り返し、それは例年であれば1年分の練習弾薬をわずか10日間で消費するという激しいものだった。