〈事故〉にあいやすい体質はつくることができる

 わたしはライターを、もういい加減長い年月、しています。結局ライターって、何回、事故にあえるかが人生を分けるんです。大きなネタをつかめるか。生涯をかけるようなテーマにぶつかるか。それは、事故にあうということなんです。

 持って生まれた才能なんて、大したことない。だから努力が大切です。才能も、磨かなければ光らない。磨く努力こそが、才能を開花させる。努力とは、先に書いた〈勉強〉ですね。しかし、この〈勉強〉でさえも、事故にあうための準備だと思うんです。

 新聞記者にとって大きな事故とは、まずは特ダネです。いい新聞記者とは、特ダネ記者のことです。

 そして事故だから、続かない。計画的に、定期的に特ダネを書けるものじゃない。そんな人、世界中のどこにもいません。ベトナム戦争の政府機密文書をすっぱ抜いたニール・シーハンだって、ニクソン大統領を辞任に追い込んだボブ・ウッドワードだって、これは同じです。

 ただ、事故にあいやすい体質を作ることは、できる。

〈事故〉に翻弄された結果「自分」が変わる

 わたしは新聞だけではなく、外部の雑誌にも文章を書くようになりました。それが高じて、何冊も本を書くようになった。最初は記者仕事の延長で、取材者として、あるいは評論家として、本を書いていた。

 でもそのうち、自分の生活を書くようになった。新聞記者は、基本、人のことを書きます。人に話を聞き、人の活動を取材し、人の考えを書く。でも、わたしはある時期から、人のことを書くのはやめた。そのかわり、自分のことを書く。自分の生活を書く。むしろ、書くに値する生活をしろ。そんなふうに変わっていった。作家になった。

 こんなのも、大事故です。自分で計画してなったわけではない。四十代に入ったある時期、一緒に本を作っていた編集者から「近藤さんはもう作家なんだから云々」「もっと自分のことを書いて」と原稿に注文がつくようになった。自分では「そうなんだ?」とびっくりしたし、気恥ずかしくもあった。自分のことなんて、書く価値あるのかな? でも、事故にあっちゃったんだから仕方ない。観念して、自分が変わりました。