「しない言い訳」ばかりを探してはいないだろうか(写真はイメージです/gettyimages)
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 朝日新聞で「多事奏論」や「アロハで猟師してみました」を担当する近藤康太郎は毎日を機嫌よく生きるには〈仕事〉〈勉強〉〈遊び〉の三要素を鍛えつつ、〈事故〉に敏感になることが大切だという。想定外の出来事を冒険に変えると自分に何が起きるのか? 『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』から。

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「人との出会い」を見過ごさない

 人生を変えるような〝事故〞にもけっこうあう。写真家の坂田栄一郎さんと親しく付き合わせていただいているのも、最大の事故のひとつだ。

 坂田さんは、週刊誌AERAで長いこと表紙写真を撮影されていた。その仕事に、最初はライターとして、次はデスク(編集責任者)として伴走した。

 当時のAERAで表紙撮影はきわめて重要な仕事で、撮影対象も海外の文化人、経済人、政治家らの超大物が多かった。坂田さんはそうした人たちに、まったく互角のアーティストとして初対面のあいさつを始め、自分の土俵に持ち込み、相手を乗せ、いつ撮影が始まるのか、時間も迫っているんですがと、わたしたちスタッフがそわそわするころ、さあ本番だ、いっちょう〝一緒に〞いい作品を撮りましょう、とゲストを笑顔で立たせる。その手際はあざやかというほかなかった。

 目先の表紙撮影を成功させるだけではなく、「この仕事が、自分の写真家人生においてどういう意味を持つのか」を常に頭において、ビッグピクチャーで撮影されていた。

 撮影が終わった坂田さん・みつ豆さん夫妻から、何度もごちそうされて、とてもやさしくしていただいた。しかし、仕事中の緊張感は胃がしぼられるものだった。スタッフで、坂田さんの激怒の地雷を踏んでいない者は、いない。

 雑誌スタッフでさえそうなのだから、坂田さんの身の周りにいるお弟子さん、写真家の卵たちには、それはもう、峻厳たるものがあった。写真家仕事のアシストはいうまでもない。話しかた、服装、車の運転、ホームパーティーでの給仕などにも、厳しい教えは及んだ。聞いているわたしが、いたたまれなくなるものであった。坂田さんご自身が、一九六〇年代のニューヨークで、リチャード・アベドンのもと、厳しい修業生活を送られたからでもあるのだろう。

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